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『現在の藤澤』に紹介された住宅地1933(昭和8)年に刊行された加藤徳右衛門編著になる『現在の藤澤』には、以下のような新しい住宅地が開発されていることが紹介されている。
これら以外に第0224話で紹介した「柳小路住宅地」や第0297話で触れた「濱見山分譲地」もこの時代に開発された住宅地である。 松島苑《松島苑》については第0294話で紹介したように、現在の鵠沼桜が岡二丁目東部、旧小字名では上岡の北部一帯にあたり、山口寅之輔(髙瀨三郎の末弟とも従兄弟ともいわれる)によって有田金八)が1920(大正9)年に大給子爵から購入した土地を開発したものである。現在の上岡バス停南方から高瀬新道から別れて江ノ電鵠沼駅方向に向かう道(山口通りと呼ばれた)を敷設し、その両側を100~150坪位に整然と区画して区画毎に玉石垣が積まれた。分譲地としての体をなしたのは1932(昭和7)年頃、ほぼ完売したのは1939(昭和14)年頃といわれている。藤ヶ谷別荘住宅地ここは大給子爵の土地を伊東將行と木下兄弟が開発した日本初の大型別荘分譲地《鵠沼海岸別荘地》の北東側にあたると思われるが、調査していない。木村泰治という人物についても未調査である。ただ、分譲斡旋は有田金八が取り扱っていたらしい。上岡住宅地これについても、旧小字の上岡の北部と思われるが未調査である。加藤徳太郎というのは仲東の現鵠沼桜が岡二丁目、藤澤警察署南方に現在も「大勝」の屋号で営業する建築業者である。明治時代以来浜野林蔵(通称林大工(りんだいく)、屋号は「大林(だいりん)」)と並ぶ鵠沼村の名大工で、この二人が皇大神宮人形山車制作を分け合ったほどである。大正期から戦後しばらくは本拠を鵠沼海岸三丁目に移して別荘地の開発に力を置いた。 高松通住宅地・中東新道住宅地いずれも鵠沼村最後の町長であり、藤澤町初代町長を務めた髙松良夫の開発による。髙松家は第0033話で紹介したように、鵠沼きっての名家で、平安時代以来の伝統を持つ旧家である。「髙松通住宅地」は、現鵠沼桜が岡四丁目、旧小字では川袋の西部にあたる砂丘一帯で、中腹は桃畑だった。 高瀬新道を敷設するとき土地を提供し、「髙松通」の地名が生まれた。まさに我が家があるのもこの一角である。 「中東新道住宅地」は、大東道の続きでクランク状に曲がった先の小田急線に平行する両側と思われる。 高瀬住宅地髙瀨彌一の開発になるもので、川袋髙瀨邸と藤沢橘通郵便局の間一帯を区画整理して分譲したもの。江ノ電高砂停留所(現石上駅)に隣接していたので、交通アクセスは至便であった。ここは横須賀鎮守府の将校に人気があったらしく、かなりの海軍軍人が購入した。この住宅地については後に別項を設ける。ただ、残念なのは旧江之島裏街道が区画整理のため不明になったことである。 鵠沼海岸別荘住宅地・富士見丘住宅地いずれも伊東縫子の開発ということになっている。彼女は伊東將行夫人である。1920(大正9)年の將行没後、長谷川家に譲った旅館《東屋》敷地以外の伊東家所有地に貸別荘を建て、《イの○号》と番号をつけて貸し出した。イとは伊東將行の頭文字と思われるが、一般には東屋の貸別荘と認識されていたようである。《イの1号》は、旅館東屋の西方、現在の鵠沼市民センター裏門を出た右手向かいにあり、伊東將行の隠居所として建てられたらしい。ここは1933(昭和 8)年、 伊東將行の末娘=政子夫妻が「鵠沼ホテル」を開き、戦後、1950(昭和25)年に孫で養子となって伊東家を嗣いだ伊東將治によって割烹料亭《東家》が開かれた。この間の事情についてはそれぞれ別項を立てる。《イの2号》から《イの4号》は旅館東屋の北側に並んで建てられ、《イの4号》には芥川龍之介が、《イの2号》には小穴隆一が1926(大正15~昭和元)年、短期間住んだことは既に紹介した。《イの2号》には秋田雨雀が住んだという話もある。これらの貸し別荘は《イの13号》まであったことは判明しているが、「鵠沼海岸別荘住宅地」の名がそれら全てを含むものか、一部は「富士見丘住宅地」に分類されていたものかは判らない。「富士見丘住宅地」とは何かについて記載されたものが見当たらないのである。 鵠沼海浜別荘地田中耕太郞については第0172話で紹介した。中屋旅館を開いた田中安の長男である(同姓同名の法学者が辻堂に在住していた。こちらの方がはるかに有名人なので混同されやすい)。この「鵠沼海浜別荘地」とは中屋の別荘として知られていたもので、中屋旅館の南側に、共同井戸のある中庭を挟んで6軒ほど並んでいたという。 鵠沼林間別荘地この別荘地開発については見当もつかない。ただ、開発者名として挙がっている関根善太郎の自宅は、有田商店脇から仲通りを小田急線踏切を渡ってすぐ右側にあった。「林間別荘地」というネーミングは、小田急が江ノ島線開通に際して創始した「林間都市開発」に影響されてのものと考えられる。「林間都市開発」とは、震災前盛んになった「田園都市開発」に触発された郊外都市開発計画で、高座郡大野村上鶴間(現相模原市南区)と同郡大和村下鶴間(現大和市)にまたがる小田急江ノ島線沿線に、宅地や野球場、ラグビー場などをつくり、さらには相撲部屋や松竹の撮影場などを誘致しようとしたもの。江ノ島線に東林間都市駅、中央林間都市駅、南林間都市駅(いずれも現在は駅名に「都市」がついていない)を設置した後、宅地の分譲を開始して、購入者には3年間の無賃乗車特典を付ける等の購入意欲を盛り上げるような販売戦略を行った。当時としては都心から遠すぎたことや、小田急沿線でも成城など他の宅地開発があったことから思うように分譲が進まなかった。 「田園都市」とは、1898(明治31)年にイギリスのエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市形態で、日本では1907(明治40)年に内務省地方局有志により『田園都市』が刊行されハワードの理念が紹介された。これを受けて、先ず関西で小林一三が経営する阪急電鉄が1910(明治43)年に池田駅近郊の室町、翌年に桜井駅(箕面市)など沿線周辺の宅地分譲を行い噴水やロータリーを設けた「田園都市」を相次いで開発した。 東京では渋沢栄一らが1918(大正7)年に田園都市株式会社を設立し、洗足や田園調布を噴水やロータリーを設けた「田園都市」を分譲開発し、首都圏を代表する高級住宅地として、漫才のネタにもなるほどの成功を得た。神奈川県内でも、1922(大正11)年に《大船田園都市㈱》が設立され、「新鎌倉」都市計画が進められたが、関東大震災によって頓挫し、1928(昭和3)年に放棄された。 一本松住宅地一本松は現在も小田急跨線橋下のJR東海道線踏切に名を残す地名で、かつて(戦後まであったというが、私の記憶にはない)踏切の南西側に一本のクロマツの巨木があったことによる。おそらくこの踏切から南下する大東道の新道開発による区画整理で開発された分譲地と思われるが、詳細は未調査である。開発者として挙がっている関根国松とは、苅田の藷問屋《藷國》の当主である。 大東別荘地これも大東道の新道開発による区画整理で開発された分譲地と思われるが、詳細は未調査である。開発者として挙がっている関根守太とは、宿庭の地主で、新道開通記念碑によれば、163坪と最大の土地を寄付している。 柳小路住宅地一応第0224話で紹介してあるが、震災前の1922(大正11)年から開発は始まったらしい。濱見山分譲地大藤澤復興市街圖に日の出橋の西側、現鵠沼海岸四丁目から辻堂東一帯は松島苑より広く薄赤で塗りつぶされ、「濱見山分譲地」と記入されている。花沢町一応第0278話で紹介してある。藤沢駅南西方、現鵠沼花沢町の範囲で、昭和に入って開発された。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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