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第0294話 松島苑住宅地

山口寅之輔と松島苑住宅地

 《松島苑》とは一般の地図には記載されていないが、鵠沼地区を営業範囲にしているタクシー運転手なら認識しているるという程度の地名である。江ノ電バス高根線の「上岡」バス停から東に分岐し、江ノ電鵠沼駅方向に向かう道の両側、現在の住居表示では鵠沼桜が岡一丁目と鵠沼藤が谷四丁目にまたがる。かつてこの北側には《高砂》と呼ばれる海抜18m程度の砂丘の高まりがあり、子どもたちの砂滑りの遊び場になっていた。また、桃畑も多く、はるばる村岡方面からも花見客が訪れたと山川菊榮が『我が住む村』(1943)に記している。
 ここは大給子爵の土地を伊東將行と木下兄弟が開発した日本初の大型別荘分譲地《鵠沼海岸別荘地》の北側に隣接する。
 第0205話で、「鵠沼海岸別荘地開発は、1920(大正9)年はに一つのエポックを迎えたのではなかろうか。」と書いた。その項の冒頭に「山口寅之輔、旧大給邸跡地を入手」 を置いた。当項はその続きである。
 《松島苑》の名はかろうじて地元民に知られているが、その由来を知る人は少ない。江ノ電鵠沼駅近くに住んでいた松嶋喜作氏(証券業、戦後2代目の参議院副議長)が開いたとよくいわれるが、そのようなことはない。

 有田裕一氏・佐藤和子氏が「山口寅之輔と松島苑住宅地」と題して『鵠沼』第89号に調査報告を掲載されているので、その主要部分を要約しよう。
  • 開発した人は山口寅之輔である。
  • 分譲販売の事務所は有田金八(当時町会議員)が引き受けていたようだ。
  • 大正15年大日本町村全国図刊行会発行の明細地図では松島苑の区画は見られないが、昭和5年発行のものにはきちんとした区画が入っている。
  • 同年の『大藤澤復興市街圖』にも松島苑として大きな表示があり、その入口付近には山口町の町名も見られる。
  • 昭和14 年の地図では整備が進み、ほぼ現在のような形になっている。
  • 区画は100 ~150 坪位、1 坪5円ほどだった。
  • この住宅地売り出しの頃、住宅地入口(現鵠沼藤が谷3-12-25 と3-13-15 との間の道〉にアーチが建っていた記憶があると聞いている。そのアーチには"松島苑入口"という字が書いてあった。
  • 昭和7年前後、住宅地内の整備が進み、今でも鵠沼の至る所に見られるように区画毎に玉石垣が積まれた。その中に松苗が植えられるようになった頃、北側砂丘の松や木々の緑を背景に、東北の松島を思わせる構想からか《松島苑》と呼ばれるようになったそうだ。
  • この住宅地には最初からガス・水道が入っていた。
  • 藤沢駅南口より高瀬通り、宮崎通りを経てさらにこの松島苑内の山口通りから、通称海岸通り(江ノ電鵠沼駅から海岸へ向かう道)の大曲の四っ角のところまで一時期江ノ電の乗合自動車が走っていた。
  • 松島苑住宅地の通りに面した家2~3軒毎の角に棒杭が打ってあって、そこに松島苑1丁目~ 5丁目までの表示があった。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 山川菊榮:『我が住む村』(1943)
  • 有田裕一・佐藤和子:「山口寅之輔と松島苑住宅地」『鵠沼』第89号(1998)
 
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