|
プロフィール髙瀨彌一(たかせ やいち 1887(明治20)年7月28日-1954(昭和29)年10月5日)は国文学者・実業家 藤嶺中学校教諭鎌倉十二所村の名主の出で、横浜に出てアルコール貿易により財をなした豪商=髙瀨三郎の長男として生まれる。 太田小學校→神奈川縣中學校(現希望ヶ丘高校)を経て第一高等學校に進学し、本郷に下宿した。さらに帝國大學(東大)の国文科に進んだ。 鵠沼とのゆかり彌一が14歳の頃、三郎は江ノ電開通前後に藤ヶ谷停留所の東側、「百両山」砂丘一帯(鵠沼藤が谷2-1~11)の2万坪を超す土地を彌一の名義で入手、「鵠沼御殿」と噂される豪邸を建て、横浜から転居した。数軒の離れの一つに1911(明治44)11月より彌一の先輩で同じ下宿に住んでいた和辻哲郎が卒業論文執筆のために滞在。妹の髙瀬 照を見初めて結婚した。これが縁で大正にはいると和辻の先輩にあたる阿部次郎、安倍能成、後に和辻哲郎が別々の離れに借家し、彼らの交流は「大正教養主義」を生み出すことになる。1916(大正5)年、開校した藤嶺中学校(現藤嶺学園藤沢中高校)の国語科教諭の職を得た彌一は、今井達夫らを教えることとなる。 1919(大正8)年、藤ヶ谷の豪邸を売り払い、鵠沼桜が岡1-5~11に転居した。 1922(大正11)年に藤沢町会議員に当選した彌一は、翌年起きた大震災の復興の中心人物として活躍するほか、藤沢駅と鵠沼海岸を結ぶ「高瀬通り」建設、江之島水道の建設などインフラ整備に力を尽くしたが、事業に失敗し、失意の内に仙台の東北大学病院で他界した。 |
髙瀨彌一年譜 |
||||
西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1887 | 明治20 | 7 | 28 | 髙瀨彌一、横濱市太田町4-75で髙瀨三郎・キク夫妻の長男として誕生 |
1893 | 明治26 | 4 | 横濱市立太田尋常小學校に入学 | |
1899 | 明治32 | 4 | 神奈川縣立中學校(現県立希望ヶ丘高校)に進学 | |
1902 | 明治35 | 3 | 4 | 髙瀨三郎、鵠沼中藤ヶ谷7200の山林2万坪余を髙瀨彌一名義で購入 |
1907 | 明治40 | 9 | 旧制第一高等學校英法科・文科に進学 | |
1910 | 明治43 | 6 | 21 | 横浜市太田町4-75から藤沢町鵠沼7155へ転籍届提出 |
1910 | 明治43 | 旧制第一高等學校英法科を卒業 | ||
1911 | 明治44 | 9 | 帝國大學文科大學に転科 | |
1914 | 大正 3 | 7 | 帝國大學國文科を卒業 | |
1916 | 大正 5 | 4 | 1 | 藤嶺中學校教諭に着任 |
1916 | 大正 5 | 12 | 20 | 父=髙瀨三郎、胃癌のため鵠沼中藤ヶ谷7200にて没。享年57 |
1917 | 大正 6 | 3 | 14 | 阿川つると結婚・入籍 |
1917 | 大正 6 | 3 | 清浄光寺(遊行寺)直檀墓地に髙瀨家墓所を建てる | |
1917 | 大正 6 | 5 | 10 | 鵠沼地内(上山本橋~石上~鵠沼停留所~海岸)の道路開通式髙瀨邸内で開催 |
1917 | 大正 6 | 9 | 1 | 髙瀨笑子、髙瀨彌一の長女として誕生 |
1918 | 大正 7 | 4 | 9 | 中藤ヶ谷7200-34、髙瀨名義の山林、9.414反、山口寅之輔名義となる |
1919 | 大正 8 | 6 | 29 | 髙瀨彌太郎、髙瀨彌一の長男として誕生 |
1919 | 大正 8 | 10 | 22 | 川袋2370-1の畑を武藤正五郎より購入。一部に邸宅を建設 |
1919 | 大正 8 | 10 | 27 | 砥上2336-1の山林を田中半七より購入 |
1920 | 大正 9 | 9 | 10 | 川袋2370-1の邸宅完成。移転 |
1921 | 大正10 | 3 | 6 | 髙瀨逸男、髙瀨彌一の二男として誕生 |
1922 | 大正11 | 3 | 川袋地区の別荘地開発と藤沢-鵠沼海岸を結ぶ道路建設に着手 | |
1922 | 大正11 | 6 | 藤沢町会議員第4期改選。髙瀨彌一当選 | |
1923 | 大正12 | 4 | 笑子、藤澤尋常高等小學校に入学 | |
1923 | 大正12 | 7 | 5 | 髙瀨美枝子、髙瀨彌一の二女として誕生 |
1923 | 大正12 | 9 | 1 | 川袋髙瀨邸全潰。長女=笑子、下敷きとなるも無事。二女=美枝子死亡 |
1923 | 大正12 | 9 | 藤沢町議会、大震災復興のため善後策委員会を設置。委員名の筆頭に髙瀨彌一の名がある | |
1924 | 大正13 | 9 | 15 | 髙瀨三郎、髙瀨彌一の三男として誕生 |
1925 | 大正14 | 4 | 彌太郎、藤澤尋常高等小學校に入学 | |
1925 | 大正14 | 5 | 髙瀨彌一らによる鵠沼新道開通 | |
1926 | 大正15 | 3 | 13 | 鵠沼の髙瀨彌一が発起人となり江之島水道㈱を創立(資本金125,000円) |
1926 | 大正15 | 4 | 髙瀨逸男、藤澤尋常高等小學校に入学 | |
1926 | 大正15 | 6 | 藤沢町会議員第5期改選。髙瀨彌一再選 | |
1926 | 大正15 | 8 | 16 | 砥上2336-1の山林を山田為榮(東京麻布)に売却 |
1926 | 大正15 | 12 | 14 | 鵠沼川袋の髙瀨彌一邸の井戸を水源とする江之島水道通水式 |
1927 | 昭和 2 | 6 | 25 | 髙瀨八重子、髙瀨彌一の三女として誕生 |
1928 | 昭和 3 | 2 | 江之島水道㈱、玉川水道株式会社系と提携し、湘南水道株式会社となる | |
1929 | 昭和 4 | 4 | 笑子、横濱第一高女(平沼)に入学 | |
1929 | 昭和 4 | 12 | 藤沢町会議員第6期改選に出馬せず。議員引退 | |
1930 | 昭和 5 | 4 | 三郎、藤澤尋常高等小學校に入学 | |
1931 | 昭和 6 | 3 | 5 | 髙瀨由美子、髙瀨彌一の四女として誕生 |
1931 | 昭和 6 | 4 | 彌太郎、飛び級で縣立湘南中學校に入学 | |
1932 | 昭和 7 | 藤澤町長者番付において髙瀨彌一 22,150円で西方、前頭5枚目 | ||
1933 | 昭和 8 | 4 | 八重子、藤澤第一小學校に入学 | |
1935 | 昭和10 | 4 | 笑子、横濱第一高女を卒業、津田塾に入学 | |
1936 | 昭和11 | 3 | 14 | 母=髙瀨キク、死去 |
1936 | 昭和11 | 3 | 20 | 妻=髙瀨つる、死去 |
1936 | 昭和11 | 3 | 笑子、津田塾を中途退学。家事を担当 | |
1936 | 昭和11 | 4 | 彌太郎、旧制水戸高校に入学 | |
1936 | 昭和11 | 4 | 由美子、藤沢第一小學校に入学 | |
1939 | 昭和14 | 4 | 彌太郎、東北帝國大學に入学 | |
1940 | 昭和15 | 7 | 16 | 川袋2370-1の土地を松田商業㈱(品川区上大崎)に売却→鵠沼1861(花沢町)に移住 |
1942 | 昭和17 | ? | 彌一、片瀬西方(にしかた)に借家 | |
1954 | 昭和29 | 10 | 5 | 仙台・東北大学病院にて没。享年67 |
2003 | 平成15 | 3 | 倪倉健「鵠沼の草分け 高瀬弥一」『わが住む里 第52号』 | |
2003 | 平成15 | 9 | 30 | 伊藤 聖「藤ヶ谷にあった高瀬邸について―母屋と離れの位置の一考察―」『鵠沼』87号 |
2004 | 平成16 | 9 | 30 | 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』89号(特集:鵠沼と高瀬家の百年) |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
|
|
BACK TOP NEXT |