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第0211話 川袋髙瀨邸

中藤ヶ谷から川袋へ

 1916(大正 5)年12月20日、父=髙瀨三郎の死によって家督と家業を継ぐことになった長男=髙瀨彌一は、1919(大正 8)年10月22日、川袋2370-1の畑を武藤正五郎より購入した。その一部約5000坪を自宅の敷地とし、邸宅を建設した。
 場所は橫濱電氣㈱江之島電氣鉄道部が新駅《高砂》を開設することになる西側、川袋の低湿地に向かう南向き斜面の3000坪を邸宅地とし、その下の川袋低湿地に2000坪の池を掘った。
 髙瀬笑子:『鵠沼断想』から引用しよう。
 「いい松がそびえている丘があり、南はぐっと低くなっていて、藤ヶ谷とのあいだは、川袋の沼沢地と田圃であった。海から吹いてくる風が松林を通り、稲や芦の上を吹いて塩分をおとし、さらさらとした涼風となって来る。このくらい海から離れていることが望ましい、と父が言うのを幾度もきいた。江ノ電の線路から324m位西寄りの一区画に家を建て、そこに藤ヶ谷の家とは大違いの粋な数寄屋造りの家を建てた。関東大震災の直前のことである。美しい三河瓦の屋根、軒が長く、廻り廊下のところどころの柱は細く、数もごく少なかった。こういう華奢な作りであったから、大震災では一たまりもなくぺっしゃんこになってしまった。」
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 吉川八重子:「川袋の家の想い出―父に」『鵠沼』第84号(2004)
  • 髙瀬三郎:「川袋髙瀬邸の平面図・建物配置図」『鵠沼』第84号(2004)
  • 髙瀬笑子:『鵠沼断想』(1998)
 
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