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第0265話 鵠沼文化人百選 その025 芥川龍之介


 この《鵠沼文化人百選》は、2005(平成17)年10月15日(土)~2006(平成18)年1月15日(日)、鵠沼郷土資料展示室が《鵠沼を語る会》と共催で行った『第7回 企画展 鵠沼ゆかりの文化人展』の展示内容を、2009(平成21)年4月1日に刊行された会誌『鵠沼』別冊「鵠沼ゆかりの文化人」 の中から100人を選んで紹介している。「鵠沼ゆかりの文化人」の人選にあたっては、鵠沼に在住した時期・場所が明確に判明している文化人を、「文芸」「美術」「舞台」「学術」の4ジャンルに分けて紹介した。在住時期は当初1年以上を考えたが、「1年程度」とボカした。武者小路実篤と芥川龍之介を外したくなかったからである。
 《鵠沼文化人百選》も4分の1まで進み、いよいよ超大物の芥川龍之介を紹介することになった。《鵠沼を語る会》には会員に姪の葛巻左登子さんや、主治医の富士 山医師がおられたこともあり、熱心に研究に取り組んできた。従って、この第0265話だけでなく、数回に分けて話題を提供することになる。

プロフィール

 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ 1892-1927)は小説家 東京生まれ。
 【学歴】東京帝国大学文学部
【主要著書】
『杜子春』、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』。
 1892(明治25)年3月1日、東京市京橋区入舟町で新原敏三、フクの長男として誕生。フクの病のため、フクの兄夫婦・芥川道章、儔と伯母・フキに養育されることとなった。江東尋常小学校入学、10歳、1902~3年に同級生と回覧雑誌『日の出界」を数冊刊行。府立第三中学(現両国高校)から第一高等学校一部乙類(文学)に進み、同級の井川恭、倉田百三、菊池寛、久米正雄、松岡譲、成瀬正一らと知己を得る。東京帝国大学文科大学英吉利文学科入学、久米、菊池、成瀬らと第三・第四次「新思潮」を創刊、文壇活動にはいる。帝大をで大学院に進むも除籍となり、横須賀の海軍機関学校の英語学嘱託教授となり、鎌倉に居住。
 俳優・演出家の比呂志は長男、作曲家の也寸志は三男、次男の多加志は太平洋戦争ビルマ戦線で戦死。

鵠沼とのゆかり

 1914(大正3)年、鵠沼の友人の別荘を訪れ、のちにその友人の姪、塚本文と結婚することになる。1918(大正7)年3月~9月の半年間、東屋に滞在中の谷崎潤一郎の所へ、佐藤春夫等としばしば訪れている。その後、1922(大正11)年についで1926(大正15)年にも東屋を訪れ、貸別荘「イ-4号」や隣の二階家を借りたが、その時は、極度の神経衰弱に悩まされ、最悪の状態だった。

芥川龍之介鵠沼関係年譜
西暦 和暦 記                     事
1910 明治43 8 7 藤沢鵠沼に行き、親戚の別荘に滞在中の友人を訪ね、滞在する
1914 大正 3 1 4 ~6、鵠沼の山本喜誉司(後の妻=文の母の弟)家の別荘に遊ぶ
1917 大正 6 5 31 谷崎潤一郎と鵠沼中藤ヶ谷和辻哲郎宅を訪問
1918 大正 7 1 25 鵠沼滞在中の谷崎潤一郎のもとに泊まる
1921 大正10 6 1 小説家・編集者=佐々木茂索宛書簡を鵠沼より出す
1921 大正10 6 20 評論家=神崎 清宛書簡を鵠沼より出す
1921 大正10 10 宇野浩二、東屋に滞在。『文学の三十年』に里見・久米・芥川・佐佐木・大杉と面会したと書く
1921 大正10 12 13 歌人=斎藤茂吉宛書簡を鵠沼より出す
1922 大正11 2 鵠沼で数日静養
1926 大正15 1 龍之介の妻文子の弟=塚本八洲、療養のため鵠沼に移住。芥川の鵠沼滞在の契機となった
1926 大正15 2 22 妻と三男也寸志をともなって初めて東屋に滞在。『追憶』を発表し始める
1926 大正15 4 13 東屋に滞在。小品『凶』を執筆(遺稿)
1926 大正15 4 22 鵠沼に文・也寸志と静養に行き東屋に滞在する。以後翌年1月ごろまで鵠沼を生活の本拠とする
1926 大正15 4 25 小説家=蒲原春夫(1900-1960)、東屋に芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 4 ~年末、芥川龍之介の妻=文の母、弟の八洲(ヤシマ)が鵠沼海岸3-11-5あたりに住む
1926 大正15 「改造」の編集記者=古木鉄太郎、東屋に滞在中の芥川龍之介から原稿を受け取る
1926 大正15 5 5 芥川 文、也寸志、也寸志の初節句で一旦田端に戻る
1926 大正15 5 25 ~6/8、芥川龍之介、一旦帰京
1926 大正15 6 8 ~6/22、芥川龍之介、東屋に滞在
1926 大正15 6 文芸評論家=神崎 清(1904-1979)、東屋に芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 6 22 ~7/6、下痢が続くので不安になり、一旦帰京
1926 大正15 7 6 東屋に滞在。小品『鵠沼雑記』を執筆。茂吉の勧めで、貸し別荘「イ-4号」を借りる
1926 大正15 7 13 洋画家=小穴隆一(1894-1966)、東屋に芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 7 20 妻と三男也寸志をともなって「イ-4号」に転居。比呂志、多加志が来る。『点鬼簿』を執筆
1926 大正15 7 20 小品『家を借りてから』『鵠沼雑記』を脱稿
1926 大正15 7 27 医師=富士 山、芥川龍之介を初診。神経衰弱と診断。7/28・8/7・8/11・8/16にも処方
1926 大正15 7 出版人=山本実彦(1885-1952)、芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 8 7 富士医院に来院
1926 大正15 8 10 小説家=堀 辰雄(1904-1953)、芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 8 18 富士医院に再び来院
1926 大正15 8 24 宇野浩二、知友の下島勲に宛てた手紙に鵠沼での芥川龍之介の生活を紹介
1926 大正15 8 田端に帰宅
1926 大正15 9 3 鵠沼に戻る
1926 大正15 9 9 小品『點鬼簿』を脱稿
1926 大正15 9 16 俳人=小澤碧童(1881-1941)、小穴隆一と芥川龍之介を見舞い、30日頃まで滞在
1926 大正15 9 19 小説家=堀 辰雄(1904-1953)、芥川龍之介を見舞い一泊する
1926 大正15 9 20 柴さんの二階家(鵠沼海岸2-7-18)に移る
1926 大正15 9 25 歌人=斎藤茂吉(1882-1953)と歌人=土屋文明(1890-1990)、スルガランを土産に芥川龍之介を訪問
1926 大正15 9 28 法哲学者(親友)=恒藤恭(1888-1967)、26日米国より帰国し、鵠沼を訪れ芥川龍之介と面会
1926 大正15 10 1 小品『點鬼簿』を『改造』に発表
1926 大正15 10 17 ~10/19、田端に戻る
1926 大正15 10 26 小品『悠々荘』を脱稿
1926 大正15 10 小説家=川端康成(1899-1972)、芥川龍之介の紹介状を持って富士 山医師を訪問
1926 大正15 10 小説家=菊池 寛(1888-1948)、鵠沼に滞在。芥川龍之介と面会する
1926 大正15 10 小澤碧童、芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 11 27 小説家=宇野浩二(1891-1961)、芥川龍之介を見舞う
1926 大正15 11 小澤碧童、芥川龍之介を訪ねる
1926 大正15 小穴隆一、隣りに住む芥川龍之介夫妻と横浜オデヲン座でヴァレンチノの「熱砂の舞」を観る
1926 昭和 1 12 28 芥川龍之介の夫人文は子供三人をつれて田端の家に帰る
1926 昭和 1 12 29 芥川龍之介の甥葛巻義敏(1918-1985)、龍之介の二階家に来て一緒に泊まる
1926 昭和 1 12 30 ~1927/4/2、芥川龍之介、再び「イ-4号」に戻る
1926 昭和 1 12 31 午前、鎌倉の小町園へ行き二泊する
1927 昭和 2 1 1 『サンデー毎日』に『悠々荘』を発表。モデルは鵠沼松が岡の「楽々荘」
1927 昭和 2 1 2 午前鎌倉より帰宅。その日田端の家に帰る。義敏は整理のため二・三日遅れて田端へ帰る
1927 昭和 2 3 『婦人公論』に小品『蜃気楼』を発表
1927 昭和 2 3 姪の葛巻左登子宛に落木の図を贈る
1927 昭和 2 3 28 ~4/2、芥川龍之介、文子と東屋に滞在。文子・也寸志は5/4まで滞在
1927 昭和 2 6 15 鎌倉の佐佐木茂策宅で菅忠雄・川端康成と会い、その帰途鵠沼(東屋?)に1泊
1927 昭和 2 7 24 田端にて自殺
1927 昭和 2 9 1 菊池 寛、『文藝春秋』9月号に『芥川の事ども』を掲載。鵠沼時代の芥川との関係を記す
1927 昭和 2 11 『文藝春秋』に小説『歯車』を発表。舞台は鵠沼の二階家。葛巻左登子らしい人物登場
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:『鵠沼ゆかりの文化人』(2007)
 
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