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修験、法印鎌倉権五郎平景政が開拓した私領の高座郡南部の荘園の田畑95町(約3万坪)の農地の検注がなされ、国司により正式に認められた年の前年、1115(永久 3)年 2月15日に、法印と称する修験者がこの荘園で没したという記録が残っている。ということは、彼はそれ以前からこの荘園に居住し、子孫が続いているのは、妻帯していたということであろう。この修験者が今日まで続く鵠沼きっての旧家=髙松家の初代とされる。現在、少なくとも明治初期以来、髙松本家は本鵠沼二丁目の仲東集落の中央部に、鎌倉石の塀に囲まれた広大な屋敷を構えているが、以前は鵠沼村横須賀(鵠沼神明一丁目、日本精工藤沢工場あたり)にあったのかも知れない。現在、髙松家の墓地は、万福寺裏手の共同墓地、鵠沼墓地の最も奥にある。この墓地は、1943(昭和18)年、日本精工の敷地拡大に伴い、その地に散在していた野墓地をまとめて移設したものである。 髙松家の屋号は「毘沙門堂」というが、これは、『皇国地誌』によれば、1195(建久 6)年8月に修験祐範により鵠沼毘沙門堂が開基創建されたとされ、『新編相模国風土記稿』では、1679(延宝 7)年、鵠沼村の半分を知行していた旗本布施孫兵衛重次から髙松祐賢に寄付された運慶作と伝えられる毘沙門天立像を祀るために享保年中(1716-36)に鵠沼毘沙門堂を開基創建したからとされる。いずれにせよ、教寶院髙福山と号し、小田原松原神社の別当配下で真言宗だった。 1820年代に当たる文政年間、相模国準四国八十八ヶ所霊場六十三番札所の弘法大師座像が鵠沼村毘沙門堂に置かれた。 1870(明治 3)年11月、鵠沼村毘沙門堂は堂宇を廃し、境内の地および本尊は髙松祐重が所有することになった。六十三番札所の弘法大師座像はそのまま、おそらくそこにあった髙松家墓地に置かれた。あるいはこの時髙松本家が仲東に移り、邸内に毘沙門堂が建てられたため、鵠沼村横須賀に残された六十三番札所を「東毘沙門堂」と呼んだのかも知れない。 名家髙松家髙松家は単に旧家であるばかりでなく、鵠沼きっての名家といえる。興味深いのは、1870(明治 3)年の鵠沼村戸口資料にある288戸のうち、髙松家は191番仲東の髙松祐重だけしか記載されていないことである。これは、少なくとも鵠沼村内には分家がなかったことになる。この資料で姓別の戸数が最も多いのは關根家の34戸で、以下山口家23戸、宮崎家21戸、淺場家、渡邊家各20戸と続く。こうした中で、最も古い記録が残る髙松家が1戸だけというのは、いかにも不自然であり、そこには何らかの理由があるのだろうと思われるが、今のところ調べていない。 現在は多くの分家が鵠沼地区内に居住しておられ、現に拙宅の地主も髙松分家のさらに分家に当たる。 髙松祐重は1889(明治22)年、鵠沼村助役に就任し、その長男髙松良夫は、鵠沼村最後の村長であり、1908(明治41)年鵠沼村、明治村、藤沢大坂町が合併して藤沢町が誕生するや、初代町長に選出されている。 また、その長男髙松貞夫は、鵠沼唯一の病院「髙松病院」を開いて院長に就任し、さらにその長男髙松敏夫氏は、鵠沼公民館長として「鵠沼を語る会」創設に尽力された。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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