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財團法人私立藤嶺中學校1916(大正5)年4月、清浄光寺の僧侶養成機関《時宗宗學林》が《財團法人私立藤嶺中學校》として西富の清浄光寺(遊行寺)境内に開校した。1900(明治33)年に《耕余義塾》が廃校になって以来の藤澤町における中等教育機関開校である。財團法人私立藤嶺中學校は、1918(大正7)年に《私立藤澤中學校》、さらに1921(大正10)年に《藤澤中學校》と改称し、戦後の学制変更により新制の《藤嶺学園藤沢高等学校》となり、新制の《藤嶺学園藤沢中学校》を併設する形で今日に至っている。 この学校の開校当時の話題から、鵠沼を巡るものを二つ紹介しておく。 瑙彌一教諭瑙彌一は、帝國大學文科大學國文科を卒業すると、直ちに同校に就職して教壇に立った。しかし、1916(大正5)年12月20日、父の瑙三郎が胃癌のため享年57をもって死去したため、家業を継がざるを得ず、退職したらしい。この辺の事情を、「鵠沼を語る会」の青木会員が、《藤嶺学園藤沢高等学校》を訪れて調査したのだが、すでに同校には開校当時の記録は残っておらず、明確なところは判明していない。 次に述べるが、今井達夫に文章の書き方を教えたのが瑙彌一だった可能性は高い。 彌一は翌1917(大正6)年3月、清浄光寺(遊行寺)本堂の真裏にある直檀墓地に広大な高瀬家墓所を設けるが、これも同校に職を得ていたことと関係が深いと思われる。 第一回生 今井達夫今井達夫は鵠沼小學校尋常科を卒業すると、第一回生として財團法人私立藤嶺中學校に入学した。同級生には遊行寺塔頭の《赤門》の別名で知られる眞梹寳諱X代住職となる吉川 清(法名:喜善 1903-1956)がいた。吉川はフォービズムの画家としても知られる異色の僧侶である。今井と吉川は生涯にわたって親交を続けた。吉川に長男が生まれると、吉川晴彦と命名したのは今井である。 そういうわけで、今井達夫の墓所は眞梹尓謦nにある。 若干余談になるが、この学校の美術教師にはよほど優秀な人物がいたのか、数多の美術家を生み出している。上述の吉川 清の他、鳥海青児(ちょうかい せいじ 1902-1972)=茅ヶ崎在住、原 精一(はら せいいち 1908-1986)=遊行寺塔頭真浄院の長男、浮田克躬(うきた かつみ 1930-1989)=茅ヶ崎在住、彫刻の木内 岬(きうち みさき 1920-)=武蔵野美術学校教授など。 うち、鳥海青児は、所 宏(逗子開成中学生)と共に1917(大正6)年鵠沼に移住したばかりの岸田劉生を訪問している。
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