今井達夫鵠沼関係略年譜 |
西暦 |
和暦 |
月 |
日 |
記 事 |
1904 |
明治37 |
3 |
3 |
今井達夫、父今井秀松・母きみの長男として横浜市中区野毛に生まれる |
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父は山形県西村山郡朝日町出身。横浜で兄弟生糸商を営む |
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母は山形県東村山郡山辺町の生まれ。安達峰一郎(国際司法裁判所所長)の妹 |
1909 |
明治42 |
夏 |
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今井達夫(5歳)、父親の療養のため、両親と共に鵠沼「東屋旅館」の貸別荘で過ごす |
1910 |
明治43 |
4 |
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横浜市尋常小学校に入学 |
1912 |
大正 1 |
秋 |
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父親の療養のため、横浜・野毛から鵠沼に転居。尋常高等鵠沼小学校尋常科3年に転入 |
1912 |
大正 1 |
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父秀松、死去 |
1916 |
大正 5 |
3 |
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鵠沼尋常小学校を卒業 |
1916 |
大正 5 |
4 |
1 |
財団法人私立藤嶺中学校、開校。1期生として入学 |
1920 |
大正 9 |
4 |
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藤嶺中学を4年で卒業し、慶應義塾大学文学部予科に入学。渋谷常磐松の祖母しう宅に下宿 |
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大学在学中、同人雑誌「橡」に戯曲を発表する。その後、辻潤らのダダイズムに接近した |
1922 |
大正11 |
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処女詩集『心の風景』を大雲堂書店より刊行 |
1923 |
大正12 |
9 |
1 |
東京で関東大震災に遭遇、3日がかりで鵠沼の自宅に戻る。鵠沼で震災後始末の活動に従事 |
1923 |
大正12 |
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鵠沼の家は倒壊したので、鶴見の親戚の別荘の離れに仮住まい |
1924 |
大正13 |
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東京・南馬込2-26-30に住み、その間馬込文士村の一員として各界名士と交流した |
1926 |
大正15 |
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慶應義塾大学を中退、文筆活動に入る。博文館に入社。その後時事新報社に移る |
1930 |
昭和 5 |
11 |
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腰越に住む山本周五郎(27歳)との交友が始まる |
1931 |
昭和 6 |
秋 |
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尾崎士郎夫妻と今井達夫と三人で遊行寺の塔頭眞徳寺(赤門)の吉川和尚を訪ね一泊する |
1935 |
昭和10 |
2 |
14 |
~18、報知新聞に『鵠沼にいた文人』と題して5回連載 |
1939 |
昭和14 |
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クニ夫人(福島市の医師の息女)と結婚 |
1941 |
昭和16 |
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この頃馬込の自宅の2階に尾崎士郎・古賀清子が同棲していた |
1942 |
昭和17 |
春 |
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東京都大田区南馬込2-3-5から鵠沼海岸3-10「新風荘」に転入 |
1945 |
昭和20 |
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「新風荘」が日本精工の寮に転用のため、妻の実家の福島市北町へ疎開 |
1945 |
昭和20 |
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終戦直後、福島県文芸家協会を設立。福島県内各地で文化講演会を開催 |
1946 |
昭和21 |
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大森の妹の家に寓居 |
1947 |
昭和22 |
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大森より鵠沼海岸3-10加藤産婦人科の2階を間借りして転入 |
1947 |
昭和22 |
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鵠沼海岸3-8安岡章太郎の父の家の離れに転居 |
1951 |
昭和26 |
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鵠沼下岡6708(鵠沼松が岡3-14)に新築し、転居 |
1954 |
昭和29 |
6 |
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今井達夫・寺崎浩ら湘南在住の文化人を中心に「すわん會」を結成。丸政で第1回会合 |
1972 |
昭和47 |
8 |
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『昔の鵠沼抄』を「文芸広場」20号に発表[原稿は東京都近代文学博物館] |
1978 |
昭和53 |
5 |
6 |
鵠沼松が岡3-14にて没。享年74。墓所は眞徳寺(時宗 遊行寺塔頭 神奈川県藤沢市西富) |
1978 |
昭和53 |
5 |
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雑誌山紫水明5月号に『鵠沼物語序説』を掲載 |
1989 |
平成元 |
9 |
11 |
鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』50号刊行(鵠沼物語(震災編抜粋):今井達夫) |
1990 |
平成 2 |
1 |
9 |
鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』51号刊行(よかったなあ、あの時代は:今井達夫) |
1996 |
平成 8 |
3 |
26 |
遺構『私の寺子屋』「藤沢市教育史研究」5 教育文化センター |
2004 |
平成16 |
3 |
8 |
鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』別冊『今井達夫著作品復刻号』刊行 |
2007 |
平成19 |
3 |
31 |
鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』94号刊行(今井達夫遺稿① 『遺言書』)以後適宜掲載 |
2010 |
平成22 |
8 |
6 |
鵠沼を語る会、今井達夫遺稿の自筆原稿などを神奈川近代文学館(横浜)に寄贈 |