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大正教養主義ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber, 1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身の哲学者・音楽家。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。1893(明治26)年6月に日本へ渡り、同年から1914(大正3)年まで21年間帝國大學に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。また、東京音樂學校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。 ケーベルとその弟子たちは一般的には、大正教養主義をもたらしたと考えられている。しかし、大正教養主義という『主義』がこの時期に運動として起こったのではない。これは後年、唐木順三によって名づけられたものである(『近代日本思想史の基礎知識』)。 例の会ケーベルの弟子たちで、夏目漱石に私淑していた若者のうち、鵠沼に関わりのあるのは次のメンバーである。
彼らは定期的に「例の会」と称する牛鍋を囲む会を在京の友人を招いて催した(下記一覧の赤字は、開催期日が明確に判明しているもののみで、実際はもっと頻繁に開かれたと思われる)。こうした談論の中から1917(大正6)年5月1日、岩波書店から創刊されたのが思想雑誌『思潮』である。同誌は、主幹・阿部次郎。同人は石原謙、和辻哲郎、小宮豊隆、安倍能成。岩波茂雄が夏目漱石門下の評論家や哲学者を擁して創刊。ケーベルも寄稿している。 彼らの許には一高文藝部出身の谷崎潤一郎・芥川龍之介らが訪れたり、当時、鵠沼を舞台に活動していた「白樺派」や「草土社」の若者たちとの交流も見られた。 しかし、髙瀨三郎の死去により、髙瀨彌一は中藤ヶ谷髙瀨邸を売り払い、新たに川袋の土地を求めて不動産業を行うことになったため、安倍、和辻らも鵠沼を去ることになった。 |
鵠沼における大正教養派の活動 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1914 | 大正 3 | 4 | 30 | 哲学者・小説家=阿部次郎(1883-1959)、単身で鵠沼中藤ヶ谷髙瀨邸の離れに住む |
1914 | 大正 3 | 5 | 27 | 阿部次郎、髙瀨邸の離れから一旦帰京 |
1914 | 大正 3 | 6 | 17 | 阿部次郎、髙瀨邸の離れに戻る。以来断続的に滞在を繰り返す |
1915 | 大正 4 | 3 | 22 | 阿部次郎、髙瀨邸の離れに再び住む |
1915 | 大正 4 | 5 | 阿部次郎、髙瀨邸の離れを去る | |
1915 | 大正 4 | 9 | 哲学者=和辻哲郎・照夫妻、照の実家の髙瀨邸の離れに移住 | |
1915 | 大正 4 | 9 | 阿部次郎、単身で和辻哲郎宅に滞在 | |
1916 | 大正 5 | 3 | 20 | ~21、阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問 |
1916 | 大正 5 | 3 | 教育者・哲学者=安倍能成(1883-1966)、髙瀨邸の離れに居住 | |
1916 | 大正 5 | 4 | 1 | 髙瀨彌一、藤嶺中學校教諭に着任 |
1916 | 大正 5 | 5 | 2 | ~5/20、阿部次郎、和辻哲郎宅に滞在 |
1916 | 大正 5 | 5 | 20 | 独文学者=小宮豊隆(1884-1966)、和辻哲郎・安倍能成宅を訪問→阿部次郎と帰京 |
1916 | 大正 5 | 6 | 小説家=中 勘助(1885-1965)、安倍能成を訪れ、髙瀨家離れに1月程滞在 | |
1916 | 大正 5 | 7 | 26 | 阿部次郎、箱根で岩波茂雄と面会の帰途和辻哲郎宅に立ち寄り1泊 |
1916 | 大正 5 | 8 | 14 | ~15、阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問。安倍能成宅で夕食をとり、小宮豊隆らと交流 |
1916 | 大正 5 | 12 | 20 | 実業家=髙瀨三郎、胃癌のため鵠沼中藤ヶ谷7200にて没。享年57 |
1916 | 大正 5 | 歌人=茅野雅子(1880-1946)、安倍能成を訪う | ||
1917 | 大正 6 | 1 | 10 | ~17、阿部次郎、和辻哲郎宅に7日間滞在 |
1917 | 大正 6 | 1 | 22 | ~23、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・和辻哲郎が集う |
1917 | 大正 6 | 3 | 14 | 髙瀨彌一、阿川つると結婚・入籍 |
1917 | 大正 6 | 3 | 髙瀨彌一、清浄光寺(遊行寺)直檀墓地に髙瀨家墓所を建てる | |
1917 | 大正 6 | 4 | 21 | ~22、和辻哲郎宅で「例の会」。阿部次郎ら数人で雑誌『思潮』同人結成について協議 |
1917 | 大正 6 | 5 | 1 | 岩波書店より思想誌『思潮』創刊 |
1917 | 大正 6 | 5 | 31 | 谷崎潤一郎・芥川龍之介、和辻哲郎宅を訪問 |
1917 | 大正 6 | 7 | 1 | ~2、阿部次郎、和辻哲郎宅に1泊。翌日安倍能成宅に寄り岩波茂雄と交流 |
1917 | 大正 6 | 9 | 1 | 髙瀨笑子(東洋学者・歌人)、鵠沼中藤ヶ谷にて髙瀨彌一の長女として誕生 |
1917 | 大正 6 | 11 | 11 | ~12、和辻哲郎宅で「例の会」。阿部次郎ら集う |
1918 | 大正 7 | 1 | 26 | ~27、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎が集い、翌日横浜三渓園へ |
1918 | 大正 7 | 3 | 28 | 阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問 |
1918 | 大正 7 | 3 | 安倍能成、鵠沼中藤ヶ谷7200から転出 | |
1918 | 大正 7 | 4 | 9 | 中藤ヶ谷7200-34、髙瀨名義の山林、9.414反、山口寅之輔(東京四谷区愛住町44)名義となる |
1918 | 大正 7 | 6 | 7 | 和辻哲郎・照夫妻、中藤ヶ谷髙瀨邸内より東京へ転居。阿部次郎も和辻哲郎宅を去る |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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