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プロフィール安倍能成(あべ よししげ 1883(明治16)年12月23日-1966(昭和41)年6月7日)は哲学者・教育者・評論家・文部大臣1901(明治34)年県立松山中学校卒業。第一高等学校在学中、1903(明治36)年5月に友人藤村 操が日光華厳の滝に投身自殺したことに衝撃を受け(後に操の妹=恭子を妻に迎える)、思想・芸術へ傾倒。1909(明治42)年東京帝国大学哲学科卒業。夏目漱石の門下となる。京城大学教授を経て1940(昭和15)年、第一高等学校校長。戦後、1946(昭和21)年、幣原喜重郎内閣の文部大臣・貴族院帝国憲法改正案特別委員長となり、同時に帝室博物館総長兼学習院長。教育刷新委員会委員長・国語審議会会長を歴任。後に岩波書店を中心とする平和問題談話会に代表として参加、全面講和と中立主義を説くなど世論にも大きな影響を与えた。 鵠沼とのゆかり1916(大正5)年3月より1918(大正7)年3月まで鵠沼中藤ヶ谷7200(鵠沼藤が谷2-4)高瀬邸内の離れに居住。この間しばしば阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・和辻哲郎が集い、「例の会」を開いた。一方、小説家=中 勘助・歌人=茅野雅子らが来訪したことが伝えられている。また、昭和初期から鵠沼海岸1-5-12に別荘を構え、しばらく住んだ。 |
安倍能成 鵠沼関係年譜 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1916 | 大正 5 | 3 | 教育者・哲学者=安倍能成(1883-1966)、鵠沼中藤ヶ谷7200 高瀬邸内に居住 | |
1916 | 大正 5 | 5 | 20 | 独文学者=小宮豊隆、和辻哲郎・安倍能成宅を訪問→阿部次郎と帰京 |
1916 | 大正 5 | 6 | 小説家=中 勘助、安倍能成を訪れ、高瀬家離れに1月程滞在 | |
1916 | 大正 5 | 8 | 14 | ~15、阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問。安倍能成宅で夕食をとり、小宮豊隆らと交流 |
1916 | 大正 5 | 歌人=茅野雅子(1880-1946)、安倍能成を訪う | ||
1917 | 大正 6 | 1 | 22 | ~23、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・和辻哲郎が集う |
1917 | 大正 6 | 7 | 1 | ~2、阿部次郎、和辻哲郎宅に1泊。翌日安倍能成宅に寄り岩波茂雄と交流 |
1918 | 大正 7 | 1 | 26 | ~27、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎が集い、翌日横浜三渓園へ |
1918 | 大正 7 | 3 | 安倍能成、鵠沼中藤ヶ谷7200から転出 |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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