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髙瀨家の長女=笑子1917(大正 6)年9月1日、鵠沼中藤ヶ谷の髙瀨彌一・つる夫妻に第一子=長女の髙瀨笑子が誕生した。以来、彼女は藤澤尋常小学校、神奈川縣立横濱第一高等女學校(現県立横浜平沼高校)を経て津田塾に進んだが、母の死により津田塾を一旦退学し、幼い弟妹の面倒を見ると共に、業績悪化で苦しんでいた父=髙瀨彌一を支えることになった。 戦後、津田塾に復学し、さらに東京大学文科に初の女子学生として進学し、ガリオア(翌年よりフルブライトと改称)資金を得て留学生として米国ミネソタ大学に入学した。卒業後はミネソタ大学で東洋学を講じ、一方、歌人として数冊の歌集を刊行した。 現在もミネソタ大学名誉教授としてミネアポリスにご健在と聞く。 ここでは略年譜を掲げるにとどめるが、今後折に触れて話題に登場するであろう。 |
髙瀨笑子略年譜 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1917 | 大正 6 | 9 | 1 | 髙瀨笑子、鵠沼中藤ヶ谷にて実業家=髙瀨彌一の長女として誕生 |
1923 | 大正12 | 4 | 藤澤尋常小学校に入学 | |
1923 | 大正12 | 9 | 1 | 川袋高瀬邸全潰。長女=笑子、下敷きとなるも無事。二女=美枝子死亡 |
1930 | 昭和 5 | 4 | 神奈川縣立横濱第一高等女學校(現県立横浜平沼高校)に進学 | |
1935 | 昭和10 | 4 | 横濱第一高等女學校を卒業。津田塾に進学 | |
1936 | 昭和11 | 3 | 母の死により津田塾を退学 | |
1936 | 昭和11 | ~1977、歌人=水町京子に師事 | ||
1937 | 昭和12 | 国際文化振興会(KBS)にタイピストとして就職 | ||
1945 | 昭和20 | 8 | 敗戦によりKBS解散。職を失う | |
1945 | 昭和20 | 10 | 津田塾に復学 | |
1949 | 昭和24 | 3 | 津田塾を卒業、東京大学文科に進学(東大初の女子学生) | |
1951 | 昭和26 | ガリオア(翌年よりフルブライトと改称)留学生として米国ミネソタ大学に入学 | ||
1952 | 昭和27 | 松本氏(Kaye K. Matsumoto=日系二世)と結婚→松本笑子 筆名は高瀬笑子 | ||
1961 | 昭和36 | 『くげぬま』(新星書房)を刊行 | ||
1971 | 昭和46 | 『離愁―歌集 (1971年) (とほつびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行 | ||
1982 | 昭和57 | 3 | 『水町京子―人と作品』(九藝出版)を刊行 | |
1983 | 昭和58 | 3 | 『秋風秋雨―歌集 (遠つびと叢書〈第40篇〉)』(短歌新聞社)を刊行 | |
1984 | 昭和59 | 1 | 『春日遅々―歌集 (地中海叢書〈第212篇〉)』(ながらみ書房)を刊行 | |
1989 | 平成 1 | 9 | 『高瀬笑子歌集 (日本現代歌人叢書)』(芸風書院)を刊行 | |
1990 | 平成 2 | 8 | 『湖光る窓―歌集 (遠つびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行 | |
1990 | 平成 2 | 10 | 『冬を越す―歌集 (遠つびと叢書)』(短歌新聞社)を刊行 | |
1998 | 平成10 | 6 | 『鵠沼断想』(武蔵野書房)を刊行 | |
2002 | 平成14 | 10 | 『ゆく河の流れ―ふたつの国に生きて』(武蔵野書房)を刊行 |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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