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第0245話 鵠沼文化人百選 その022 杉 敏介

プロフィール

  杉 敏介 (すぎ としすけ(びんすけ) 1872-1960)は国文学・歌人 一高教授→校長  山口県周東町出身
 明治後期より一高の教授となり、和辻哲郎・谷崎潤一郎など幾多の俊英を育てた。1924年9月13日~1929年7月2日には第10代の校長を務めた。同校の記録には、「斗酒を辞せず豪放にて洒脱、全校の輿望を集めた。大きな事件の決断に速なると共に、細かいことにも配慮の行き届く人であった。」とある。『吾輩は猫である』の津木ピン助のモデル。没後、谷崎潤一郎は『向陵駒場』に「敏介とピン助」を寄稿している。
 歌人としても知られ、号は烏山また南山。

鵠沼とのゆかり

  ちょうど一高校長時代の1924(大正13)年から昭和初期の数年間、川袋髙瀬邸の筋向かい(鵠沼桜が岡1-1-19)に住み、その後鎌倉に転居した。その間、教え子であった髙瀬弥一としばしば交流し、次の歌を詠んでいる。
 高瀬彌一君より今も砥上の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて
砥上原いまも鴫立つ澤をおきて いづくに古き跡をたづねむ [南山歌集]
 高瀬笑子氏は『鵠沼断想』に、測量師・写真師を連れて川袋の埋立地を歩いている杉を紹介している。鴫立つ沢の消滅を惜しんでのことか。

 このサイトも予定の4分の1に近づいてきたが、画像を貼り付けるとプロバイダの容量が心配になってくる。
 写真については下記[参考サイト]に1908年5月撮影の一高文芸部新旧役員が掲載されているので参照されたい。この項は筆者が起稿したものである。ここに写る12人のうち、前列の谷崎・杉・和辻と3人までが鵠沼ゆかりの人物であり、写っていないが小泉鐵もこの時代の一高文芸部員だった。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:『鵠沼ゆかりの文化人』(2007)
[参考サイト]
 
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