|
「文士宿」東屋第0140話に記したように、東屋滞在の文士として記録に残る最初は広津柳浪(1861-1928)で、1897(明治30)年秋に東屋に滞在し、小説『くされ縁』を執筆している。彼は、そこで立ち働く女将が、硯友社が愛用していた神楽坂箪笥町の名料亭=《吉熊》の女中頭=長谷川ゑいであることに驚き、硯友社の仲間に知らせたのであろう。恐らくこれが、東屋が「文士宿」と呼ばれるきっかけだったと思われる。東屋開設のきっかけは、鐵道の開通と鵠沼海岸海水浴場の開設だった。ねらいは長期滞在型の海水浴客の受け入れと、オフシーズンには転地療養者の受け入れである。 これは、伊東將行が埼玉県吹上出身の医師=福田良平を招聘し、東屋近くに「鵠沼海浜医院」を開設させたことによっても判る。この医院は、鵠沼村における最初の近代的な医療施設であった。 江之島電氣鐵道が開通するまでは、藤澤停車場北口から1里近くの道のりを徒歩かせいぜい人力車を利用する方法しかなかったわけだから、かなり辺鄙な場所だったに違いない。あるいは、江の島に遊んだついでに、安くて静かな宿を求めて来た人がいたかも知れない。 この辺鄙さと静けさが、落ち着いて執筆活動をしようという文士に愛された。 世に「文士宿」を標榜する旅館は、花巻鉛温泉の「藤三(ふじさん)旅館」、青根温泉の「湯元不忘閣」、塩原温泉の「清琴楼」、九十九里浜の「一宮館」、茅ヶ崎の「茅ヶ崎館」(現当主は私の教え子)、箱根塔ノ沢の「一の湯」、「環翠楼」、湯河原温泉の「中西屋」、「伊藤屋」(ここの令嬢は、私の教え子だった)、「藤田屋」、奥湯河原の「加満田」、熱海温泉の「起雲閣」、湯ヶ島温泉の「白壁荘」、「湯川屋」、湯ヶ野温泉の「福田家」、軽井沢の「万平ホテル」、「つるや旅館」、「星野温泉」(我々の新婚旅行の宿)、上林温泉の「塵表閣」(高校時代に泊まった)、山田温泉の「藤井荘」、高山の「長瀬旅館」、金沢辰口温泉の「まつさき」、吉野の「桜花壇」、城崎温泉の「三木屋」、湯田温泉の「西村屋」、柳川の「御花」(祖母の親友の家。3年前に泊まった)など、枚挙にいとまがないが、そのほとんどは一人かせいぜい数人の文士が滞在し、執筆したというケースである。 片瀬在住の作家=佐江衆一氏は、「日本近代文学の作家たちが同じ旅館に逗留して、作品を書き、また遊びもした一種の文壇サロンが半世紀もつづいた場所は、(東屋の)他にはないだろう。 」と書いておられる。 明治時代に限って(大正以降は別項を立てる)東屋に止宿した文人を列挙してみよう。
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|