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普門寺の来歴普門寺は、密巌山遍照院と号し、高野山真言宗(古義真言宗)に属しているが、もと藤沢・大鋸の感應院三十二か寺の一つであった。過去帳によると、1528(享禄元)年5月、感應院三五代権大僧都良元(良元僧都)が、唐土ヶ原(平塚市)に一寺を創建、十一面観音像を本尊としたという(第0053話参照)。その後、1617(元和3)年3月、元朝阿遮梨が、砥上ヶ原の現地に再興開基し、本尊を不動明王像とした(第0063話参照)。元本尊の十一面観音像は、寺の東方に離れて観音堂を建立して安置した。江戸時代に入る頃から鵠沼村民の伊勢参りと高野山登山をセットにした参詣旅行が盛んになり、普門寺はその指導的な立場にあった(第0073話参照)。 文化文政期には堀川の淺場太郎右衛門父子によって「相模國準四國八十八箇所」設置の発願がなされ、普門寺住職=善応密師に相談し、密師は、大東にあった同寺の観音堂庵主=浄心を四国八十八か所に遣わし、砂を持ち帰らせて協力すると共に(第0084話参照)第四十七番・第八十八番結願札所を普門寺に置いた(第0085話参照)。 生田浄耕幕末から明治にかけて普門寺の五十二世住職だったのが、江戸青山五十人町の吉井正左衛門の三男=生田浄耕師であった。生田浄耕は、1866(慶応 2)年本堂再建を発願したと記録にあるが、この当時の本堂がどのような状態だったのかは判らない。生田浄耕は、なかなかの文化人だったらしく、幕末藤沢俳詣の中心人物であつた如々(墓は大鋸の感応院)の指導を受けて「如蕉」という俳号で、「蕉窓」こと万福寺二十三世荒木良空師と共に「鵠沼連」の指導的立場だったことは、第0097話で紹介した。如蕉の句、「庭先へ野の影移る霞哉」。 1872(明治 5)年に学制により鵠沼学舎が鵠沼普門寺脇の寺の物置を校舎に開設された。この時普門寺住職の寺子屋が廃業したということは、それまでは寺子屋の師匠でもあったのだろう。 発願から12年、本堂は完成し、1878(明治11)年5月11日から13日、遷仏式が普門寺において修行された。大導師は高野山金剛峰寺住職 獅子岳快猛、高野山慈眼院、同寂静院、横浜金沢の龍華寺、太田の東福寺、手広の青蓮寺、茅ヶ崎の円蔵寺、藤沢感応院、一の宮の安楽院、甘沼の東漸寺、極楽寺の成就院、町谷の泉光院、戸塚の宝蔵院、大船の多聞院、腰越の浄泉寺、片瀬の密蔵院、津村の宝善院、腰越の満福寺、寺分の東光寺、金沢野島の善応寺、同三分の宝樹院、宮山の西善院、菱山の長福寺、柳島の善福寺、萩園の万福寺、日野の安養寺、平塚の薬師院、保土ヶ谷の真福寺、小和田の広徳寺、荘厳寺、宝珠寺、大和福田の蓮慶寺、大庭の成就院、小和田の千手院、金沢富岡の宝珠院、瀬谷の宝蔵寺、久保の自照院、川名の神光寺、梶原の等覚寺の諸寺院が助法列座している。 1898(明治31)年7月17日、普門寺中興=生田浄耕(俳号:如蕉)は入寂した。享年64。墓所は本鵠沼5-2(鵠沼小学校正門の先)の普門寺歴代の墓所で、塔婆型墓碑が建てられている。
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