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鵠沼村では、早くも1536(天文 5)年から普門寺を中心として、伊勢参りと高野山登山を組み合わせた大旅行が行われるようになった。 宿坊の月牌帳鵠沼村の村民は高野山の塔頭「慈眼院」を宿坊として利用するのが原則だったが、同院は1710に火災に遭い、それ以前の記録は残っていない。また、慈眼院は明治時代に入って廃寺となった。仏教史の圭室(たまむろ)文雄明治大学教授(鵠沼松が岡在住。「鵠沼を語る会」会員)の調査により、慈眼院の月牌帳が高野山の宿坊「高室院(たかむろいん)」に所蔵されており、1711(正徳元)年から1867(慶応 3)年に至る279名の鵠沼村民の宿泊記録が残っていることが発見された。 高室院は、高野山門前町のほぼ中心(和歌山県伊都郡高野町高野山599)に位置する伝統的な宿坊。鎌倉時代、房海僧正によって創建されたと伝える。本尊は薬師如来。1590(天正18)年、小田原城主北条氏直が潜居したため、北条家の菩提所として小田原坊と呼ばれる。現在も旧小田原藩領であった相模国西半を中心として、関東の寺院、信者との関係が深い。 鵠沼の村民は講を組み、一定額を貯蓄して、十数年に一度は、伊勢神宮や高野山に参詣できた。その程度の経済力はあったと考えられる。 鵠沼村民の苗字この月牌帳に記された鵠沼村民の名を見て気付くのは、ほとんどが姓を記載していることである。江戸時代までは、姓を名乗ることができたのはエリートのみで、いわゆる「民百姓」はせいぜい屋号で呼び合うのみで、姓はなかったと思われてきた。しかし、このようにほとんどの鵠沼村民は姓を持っていたのだということが判る。恐らくは公的に姓を記すことが許されていなかったのだが、姓はあったのだ。
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