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第0073話 高野山登山

 元禄時代頃から、江戸の市民文化の興隆により、大山詣り、江の島詣りなどの参詣や物見遊山などを組み合わせた行楽が盛んになる。遠くは富士登山、日光詣り、出羽三山、そして伊勢参りと高野山登山と奈良・京都見物、四国八十八箇所などへ、講中を組織して出掛けるようになった。
 鵠沼村では、早くも1536(天文 5)年から普門寺を中心として、伊勢参りと高野山登山を組み合わせた大旅行が行われるようになった。

宿坊の月牌帳

 鵠沼村の村民は高野山の塔頭「慈眼院」を宿坊として利用するのが原則だったが、同院は1710に火災に遭い、それ以前の記録は残っていない。また、慈眼院は明治時代に入って廃寺となった。
 仏教史の圭室(たまむろ)文雄明治大学教授(鵠沼松が岡在住。「鵠沼を語る会」会員)の調査により、慈眼院の月牌帳が高野山の宿坊「高室院(たかむろいん)」に所蔵されており、1711(正徳元)年から1867(慶応 3)年に至る279名の鵠沼村民の宿泊記録が残っていることが発見された。
 高室院は、高野山門前町のほぼ中心(和歌山県伊都郡高野町高野山599)に位置する伝統的な宿坊。鎌倉時代、房海僧正によって創建されたと伝える。本尊は薬師如来。1590(天正18)年、小田原城主北条氏直が潜居したため、北条家の菩提所として小田原坊と呼ばれる。現在も旧小田原藩領であった相模国西半を中心として、関東の寺院、信者との関係が深い。
 鵠沼の村民は講を組み、一定額を貯蓄して、十数年に一度は、伊勢神宮や高野山に参詣できた。その程度の経済力はあったと考えられる。 

鵠沼村民の苗字

 この月牌帳に記された鵠沼村民の名を見て気付くのは、ほとんどが姓を記載していることである。
 江戸時代までは、姓を名乗ることができたのはエリートのみで、いわゆる「民百姓」はせいぜい屋号で呼び合うのみで、姓はなかったと思われてきた。しかし、このようにほとんどの鵠沼村民は姓を持っていたのだということが判る。恐らくは公的に姓を記すことが許されていなかったのだが、姓はあったのだ。
高野山慈眼院に宿泊した鵠沼村民    
西暦 和暦 記                        事
1711 正徳 1 6 21 森井金右衛門ら3名(初出。以後幕末までの記録が慈眼院月牌帳に残る)
1711 正徳 1 6 26 小菅平左衛門ら6名
1711 正徳 1 7 4 浅場重右衛門ら5名
1712 正徳 2 5 7 榎本八兵衛
1713 正徳 3 2 8 相沢伝兵衛ら9名
1723 享保 8 2 22 普門寺・法照寺・小林森右衛門ら5名
1725 享保10 7 1 浅場伝右衛門ら10名
1734 享保19 3 12 普門寺
1734 享保19 3 20 小林森右衛門
1740 元文 5 1 26 浅場十郎右衛門ら3名
1743 寛保 3 6 10 智光房・普門寺・浅場太郎右衛門ら7名
1743 寛保 3 6 15 浅場孫右衛門ら8名
1744 寛保 4 6 9 小林森右衛門、廻国の途中で高野山に登山
1744 寛保 4 8 24 多聞院、武州山伏と同道して高野山に登山
1758 宝暦 8 7 4 堀沢庄左衛門
1763 宝暦13 4 18 高橋吉三郎、西国巡礼の途中で高野山に登山
1766 明和 3 6 29 斎藤権右衛門ら7名
1769 明和 6 5 12 森半右衛門・渡辺万右衛門の両名
1770 明和 7 3 6 堀沢六右衛門
1771 明和 8 8 24 浅場太郎右衛門
1773 安永 2 3 19 普門寺・浅場太郎右衛門ら7名
1773 安永 2 閏3 6 の六部=万右衛門、高野山に登山→剃髪し円心
1774 安永 3 2 22 関根源藏
1780 安永 9 3 19 普門寺・浅場三重郎ら14名
1783 寛政 5 2 1 浅場金兵衛ら13名
1784 天明 4     普門寺現住=芳言房
1786 天明 6 4 3 石田太郎兵衛
1786 天明 6 4 9 浅場幸右衛門ら16名
1787 天明 7 9 22 普門寺現住=晴山
1788 天明 8 3 22 毘沙門堂(熄シ家)
1789 天明 9 1 30 山口乙松
1792 寛政 4 4 28 関根勘左衛門
1796 寛政 8 1 29 斎藤権右衛門ら3名
1796 寛政 8 2 3 林左五右衛門ら5名
1799 寛政11 1 23 浅場太郎右衛門ら4名
1803 享和 3 閏1 3 浅場太郎右衛門ら6名
1803 享和 3 4 5 おこめ・伝右衛門・毘沙門堂隠居
1807 文化 4 1 26 伊藤清五郎ら9名
1810 文化 7 6 29 関根伝左衛門
1812 文化 9 2 3 源右衛門ら3名
1812 文化 9 2 8 太郎右衛門・藤右衛門の両名
1813 文化10 2 1 小菅太郎左衛門ら3名
1814 文化11 1 26 市右衛門ら4名
1815 文化12 4 8 加リ田(苅田?)の好右衛門と下人一人
1819 文政 2 2 1 喜八ら12名
1821 文政 4 2 21 岩下喜太郎ら3名
1821 文政 4 2 25 山口平左衛門
1821 文政 4 2 26 浅場太郎左衛門ら6名
1822 文政 5 閏1 28 義兵衛
1827 文政10 2 1 浅場弥五兵衛ら12名
1828 文政11 2 11 加藤儀左衛門・関根三左衛門の両名
1839 天保10 8 3 毘沙門堂(熄シ家)
1840 天保11 4 20 普門寺弟子=謙応房
1841 天保12 閏1 10 浅場太郎右衛門ら14名
1843 天保14 2 14 宮崎清四郎・宮崎利右衛門の両名
1845 弘化 2 2 8 内田喜三郎ら3名
1847 弘化 4 2 10 関根佐七ら4名
1847 弘化 4 2 15 浅場太郎左衛門ら8名
1848 弘化 5 1 29 浅場源兵衛ら7名
1852 嘉永 5 3 11 普門寺資=寛潤房
1856 安政 3 2 6 浅場太右衛門ら12名
1859 安政 6 9 3 万福寺=道得ら僧3名・俗1名
1867 慶応 3 8 13 普門寺僧1名
  江戸時代における高野山慈眼院に宿泊した鵠沼村民
1710年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1720年代 ○○○○○○○○○○○○○○○
1730年代 ◎○
1740年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○◎
1750年代
1760年代 ○○○○○○○○○○
1770年代 ○○○○○○○○○◎○
1780年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○◎○○○○○○○○○○○○○○○○○◎◎○
1790年代 ○○○○○○○○○○○○○
1800年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○
1810年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1820年代 ○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1830年代
1840年代 ◎○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
1850年代 ◎○○○○○○○○○○○○◎◎◎○
1860年代
凡 例 =僧 =俗   高野山高室院相模国月牌帳(寒川総合図書館・寒川文書館蔵) 
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 圭室文雄:「檀家制度の成立と展開」『明治大学教養論集』通巻447号(2009)
[参考サイト]
 
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