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荒木蕉窓万福寺の山門を潜ってすぐ右手、鐘楼の手前に「蕉窓句碑」がある。先日(2011(平成23)年2月3日)入寂された万福寺二十五世=荒木良正老師が1994(平成6)年に建てたもので、1862(文久 2)年に刊行された『俳諧画像集』から、左図の蕉窓のページを拡大して碑にするという、珍しい句碑である(碑の詳細は別項を立てる予定)。 蕉窓とは、荒木良正老師の祖父にあたる万福寺二十三世荒木良空師の俳号で、『俳諧画像集』に掲載されるほどだから、市井の俳人の域を脱していたと思われる。 荒木良空師は幕末から明治にかけての万福寺住職であるとともに、鵠沼村きっての文化人として活動した。その一つが「鵠沼連」という俳諧の集いであった。 鵠沼連第0090話で紹介した阿部石年らによって、藤澤宿では化政期に鴫立庵系の俳人が台頭した。その影響下で用田から江の島に至る各地で俳諧が大流行したようである。その最終段階で、幕末から明治にかけて活発な活動を見せたのが「鵠沼連」であった。 鵠沼連を蕉窓と共に率いた人物に如蕉がいる。如蕉とは普門寺五十二世=生田浄耕の俳号で、いずれも俳号に「蕉」の字を用いていることから、鴫立庵系の影響が読み取れる。鵠沼連にはこの他に清水・紫塵・一如・杜子・葦昇・白荷・英之らがいたと『藤沢市史』第五巻は紹介している。 猪飼蓬泉万福寺境内の大磯屋墓所の奥右手にある猪飼蓬泉墓碑の右面には“三日月の居住直る簟(たかむしろ)”と彫られている。没年は1831(天保 2)年4月21日で、石年と同世代の俳人と思われる。大磯屋は藤澤宿の大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)から3軒目にあり、出身は大磯で、代々飯盛旅籠(はたご)を営んでいた。明治維新後に廃業、藤次郎の子勝次郎は薬種商となり、その子次郎は市議となったが今は絶家した。万福寺の墓所には墓標が数十基あり、その中には飯盛女の墓も含まれるという。
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