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第0111話 鵠沼村の戸数と人口

鵠沼村の戸数と人口

 鵠沼にはいったいどれくらいの人々が住んできたのだろうか。この問いに対する答えは案外難しい。織豊政権の時代以来、領主たちはしばしば「検地」を行って、領土の様子を記録してきた。しかし、そこでは領土の量(面積)や質(上田・中田・下田・下下田など)と生産高(石高)は記されているが、人口の記録はほとんど見られない。
 鵠沼村の場合、1834(天保 6)年の『相模国郷帳』に戸数=250戸とあるのみである。
 古く律令の時代には、689(持統 3)年に諸国に戸籍を制定(50戸=1里)とし、735(天平 7)年閏11月10日に相模国司が『相模国封戸租交易帳』を作成し中央政府に報告。鵠沼付近を表す土甘(トカミ)郷50戸が見られることは、第0027話で紹介したが、この50戸というのは「郷」の基準単位であり、当時の土甘(トカミ)郷が正確に50戸だったわけではない。『相模国封戸租交易帳』には、他に30戸、40戸、100戸、150戸、あるいは300戸などという郷も記録されているから、「50戸前後」とでも解釈しておくべきだろう。
  明治時代に入ると、公的な人口調査記録が現れるが、これも明治後期の1897(明治30)年以来5年ごとに発表された『神奈川県統計書』で、ようやく形態が整った。それ以前のものでは第0106話で紹介した『皇国地誌』がある。これは、中間報告的な1876(明治9)年版と完成版である1879(明治12)年版とを比べると、人口は全く同じ数値だが、戸数はこの間に5戸増えている。
 1870(明治 2)年に1番から267番までの戸別番号がつけられた。有賀密夫氏は1980年代に二人の教え子を助手に旧鵠沼村の戸別番号がつけられた家の現状を悉皆調査をされた。その結果、世帯数は285世帯だろうということが判明した。このことは第0103話で紹介した。
 明治後期の『神奈川県統計書』3回分を比較すると、1902年よりも1907年の数値がいずれも減少していることに気付く。男が83人、女が51人、戸数が15戸も減少しているのである。この間に鵠沼に何があったのだろうか。
 歴史に関心がある方はお気づきであろう。この間、鵠沼村に限らず、日本の人口は減少したのである。「日露戦争」は、それほど戦死者の多い戦争であった。
 日露戦争がなかったら、明治末には鵠沼村の戸数は400戸を超えていたであろう。しかし、この間の成長はさほど大きなものではなかった。鵠沼の人口が急速に増加したのは、大正以降のことである。 

合併後の調査は困難

 ところが、その成長ぶりを裏付ける数値的データを入手するのは、案外難しい。
 1908(明治41)年4月1日、高座郡藤沢大坂町・鵠沼村・明治村が合併、藤沢町となる。合併人口は15043人だった。
 これ以降、『神奈川県統計書』の数値は藤沢町の数値となり、地区(大字)別の数値は残っていない。『藤沢市史』第三巻の折り込み付録に『明治以降町村別戸数(世帯数)、人口推移表』があるが、1908(明治41)年の合併以降は、藤沢町全体の数値が掲載されるのみである。現在の藤沢市「文書統計課」にある戦前の記録も同様である。
 最近のものならば、2003(平成15)年以降は半年ごとに地区別の数値を市のホームページでも調べることができるが、これは昔の鵠沼村と比較するならば、余り意味がない。なぜなら、鵠沼村と現在の藤沢市統計上の鵠沼地区は範囲が違うからだ。このことについては、第0004話で指摘しておいた。
 残された唯一の方法は、市立鵠沼小学校の記録を調べることである。'鵠洋小学校が開校するまで、同校は鵠沼地区全域を学区としていた。当然地域の動態に関する調査記録もあって然るべきである。ところがこれは期待薄である。というのは、同校は1923(大正12)年の関東大震災と、1953(昭和28)年の火災によって、それ以前の記録をほとんど失っているからである。地域の動態どころか児童数や職員数すら残っていない期間がある。    
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『皇国地誌』(1879) 
  • 『神奈川県統計書』
 
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