|
普門寺の建立由来1617(元和3年)3月、元朝阿闍梨(あじゃり)が本尊不動明王を勧請し 砥上ヶ原の現所に再開基した。中興は善龍、1676(延宝4)年2月20日に入寂。現本堂は中興開基生田浄耕第52世が発願、建立し、慶応2年にこれを起し 明治11年5月に遷座の式をあげた。 本尊は草創のとき十一面観音菩薩だった。この仏像は、大東の観音堂に安置され、のち廃堂になり、いまは大東公民館に安置されている。普門寺の普門はこの観音経の「普門品(ふもんぼん)」に由来している。現在の本尊不動明王 は江戸時代に鎌倉扇ガ谷の仏師後藤氏によって作られた。後藤氏の子孫は現在鎌倉彫をしている。 普門寺の現住職は川島弘之師(鵠沼を語る会会員)で第56代目になる。川島家は先々代から。53世は 中村真禅住職で、南多摩郡南村小川の友井与惣左衛門の三男だった。横浜の港北区新羽町の古刹西方寺の住職されたこともあった。普門寺から横浜の金沢の名刹 称名寺に移り、その後伊豆韮山の北条時政の菩提寺である願成就院の住職になった。現在その孫である小崎祥道が住職をしている。 52世の生田浄耕住職までが独身だった。江戸青山五十人町の吉井正左衛門の三男で1859(安政6)年に当寺の住職になっている。今日の普門寺の基礎を築いた中興の祖であり、大変な活動をした。明治29年には感応院再建落成を しているが、その時には当院の兼務住職をしていたことが過去帳に記してある。明治31年7月17日64歳で入寂している。 普門寺の仏像、仏画本尊不動明王の脇に金剛界(智恵・男性原理)と胎蔵界(慈悲・女性原理)の大日如来を安置。ともに江戸時代、鎌倉扇谷の後藤仏師の作である。同人作の阿弥陀如来立像の体内から、1765(明和2)年の『大乗妙典奉納帳』、1769(明和6)年の『四国中奉納大乗妙典日本廻国霊場』が出てきた。これによると、相模、伊豆、西国、伊勢、四国とかなり広範囲に巡礼していたことがわかる。願主は鵠沼の渡辺万右衛門とある。その他に弘法大師像、愛染明王像。仏画は平安までさかのぼるのではないかという両界曼茶羅、かなり古いという愛染明王、兆殿司作の不動明王等がある。梵鐘は寛政3年(1791)造だが、大平洋戦争に供出し、現在のものは昭和49年造である。 高野山登山と相模國準四國八十八箇所普門寺は真言宗の開祖空海(弘法大師)に対する信仰上の行動として、高野山への巡礼と相模国準四国八十八箇所の巡礼に力を入れたことは特筆すべきである。この件については別項を立てて詳説する予定である。
|
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[引用文献]
|
|
BACK TOP NEXT |