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宮ノ前集落第0118話で紹介した上村は、明治初期の戸数はわずか11戸という最小の集落であったが、その隣の宮ノ前集落は、明治初期の戸数48戸で鵠沼最大の集落であった。姓別では關根11戸が最も多く、小林7戸、宮崎6戸、渡邊5戸、土方3戸がそれに続き、須藤・淺場各2戸、その他永井、岩田、宮澤、高橋、山口、松田、上野、板橋、林、金堀(皇大神宮宮司)、荒木(万福寺住職)、大橋(空乗寺住職)が各1戸住んでいた。宮司や住職が3戸含まれているが、第一次産業人口率は本村9集落の中では最も低かったようである。 江戸時代初期の鵠沼村は、旗本布施家領と旗本大橋家領に二分されていた。今のところ、この旗本両家の采地の分布については判明していない。また、両家が采地内に屋敷を持っていたか、持っていたとすればそれがどこにあったかも判らない。大橋家領は重保・重政の2代きりで上知され、幕府領になる。その前に空乗寺に9石分を寄進し、それは石上にあったから、石上が大橋領だったことは確かである。幕府領になってから海岸部には相州炮術調練場(鉄炮場)が設置された。さすれば大橋家の采地は鵠沼村の南東部に多かったと思われるが、布施家220石に対し大橋家300石であったこと、布施家が領内に新田を開発し、それが新田山砂丘の周辺であったことなど、単純に南北に分かれていたとも考えられない。今後の大きな課題である。 荒木良正老師が『藤沢史談』第十号に寄せた「万福寺をめぐる伝説」によれば、 布施家の息女が荒木家に嫁入りしたこと、布施家の家臣、小林氏、林氏が帰農して鵠沼村に住んだことが記されているから、布施家は宮ノ前集落および万福寺とゆかりが深いといえそうである。一方、大橋家は空乗寺に寺領を寄進し、大橋重政の墓所は空乗寺にあることなど、宮ノ前にある空乗寺とゆかりが深いのである。 宮ノ前の人形山車宮ノ前は、地名が示すように、いわば皇大神宮の鳥居前町である。祭礼の人形山車参進では一番山車を務めるのは当然であろう。宮ノ前の山車人形は那須与一である。鎧を着用し、烏帽子を被った馬上姿である。右手に手綱を握り、左手に弓を持つ。背には箙(えびら)を負い、箙には征矢6本をさす。那須与一と鵠沼との関係については第0037話で説明した。 宮ノ前の人形山車の概要をまとめてみると、次のようなものである。
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