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享保の改革紀州公から1716(享保元)年に八代将軍に着任した徳川吉宗は、先例格式に捉われない財政安定策を主眼とする数々の改革を主導した。これらは在任期間の1716年から1745年の年号に由来し、享保(きょうほう)の改革と呼ばれ、寛政の改革や天保の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つとされる。相州炮術調練場(鉄炮場)この享保の改革の一環として、1728(享保13)年、長い泰平の時代が続き衰退してしまった大砲技術を復活させるため、幕府鉄炮方=井上左太夫貞高が、当時の高座郡南部と鎌倉郡南東部、現在の茅ヶ崎市と藤沢市南部にあたる相模川から三浦丘陵西端に至る湘南海岸一帯に、相州炮術調練場(鉄炮場=てっぽうば)を設置した。鉄炮場は大筒・石火矢など火砲の演習場として使われたが、鉄砲場が設置された1728(享保13)年から1748(寛延元)年までの21年間は毎年演習が行われたが、その後1750(寛延 3)年から1774(安永 3)年までの24年間は隔年ごとに実施され、それ以後は最低隔年に変更された。演習は7組程度に分かれ、各組交代でそれぞれ16日から25日間行い、4月上旬から7月中旬にかけて波状的に行われた。江戸から参加する役人は往復それぞれ2日間を加えて20日間から1か月間の出張旅行であった。 演習期間中の役人・番衆の宿泊は藤沢宿や近郊の羽鳥村、大庭村、稲荷村、鵠沼村などに割り当てられた。これらの村々は藤澤宿の助郷村としての負担も抱えており、一方、射撃音で魚が沿岸に近づかなくなったり、演習のために砂防林が伐採されて農業に少なからぬ影響が出たり、鉄炮場拡張にあたっては地域住民の反対運動も盛り上がった。 1738(元文 3)年に幕府は鉄炮場を監督する役職として大筒役を新設したが、1824(文政 7)年に大筒役に任じられた佐々木卯之助は、村民が鉄炮場内に耕地を開墾するのを黙認した。彼はそのかどで咎められ、一家共々青ヶ島に遠島となった。彼が赦免されたのは、鉄炮場廃止後の1868(明治元)年のことである。茅ヶ崎市ではその恩義を忘れず、記念碑を建てると共に、供養の式典を今日も続けている。 鵠沼村の鉄炮場鉄炮場のうち、鵠沼村には現在の鵠沼松が岡一帯に展開していた広大な砂原に、北東―南西方向に「鵠沼新田見取場」が設置され、その南端、現在の鵠沼海岸駅あたりに「角打打小屋」が置かれた。「角打」の読みについては未調査だが、近距離射撃を意味する。打場から一町ごとに定杭を打ち、発射のたびに着弾地点を特定して飛弾距離を測定した。鵠沼村の周辺では、片瀬山に「下ヶ矢打場」が置かれた。これは下方射撃の訓練場で、片瀬村駒立山から打ち下ろし、的は川袋方面に置かれたらしい。当時の片瀬川は現在の片瀬地区と鵠沼地区の境界を流れていて、現在の片瀬川下流部は「片瀬古川」と記載されている。引地川は直接海に出ずに、この片瀬川に流入していた。片瀬川の河口には「舟打場所」と記載されている。地元の漁船小船3艘と、三百石船1艘を借り、船上から射撃訓練をした。現在の辻堂小学校あたりには「町打打小屋」が置かれていて、ここから西方、辻堂村から現在の茅ヶ崎市に至る一帯は「町打場所」であり、大筒の遠距離射撃の訓練場だった。射撃目標は柳島村の海岸とした。大筒稽古では、烏帽子岩も標的とした。現在も茅ヶ崎市には「鉄炮道」と呼ばれる広い直線道路が東西方向に延びているが、これは相模川から陸揚げされた大筒を輸送する道路だったとも、遠距離射撃用にクロマツ砂防林を直線的に切り開いたからだとも伝えられる。 その後1868(明治元)年、相州炮術調練場(鉄炮場)は廃止された。境川河口から引地川に挟まれた鵠沼村の南東部(25万坪余)は、大給松平家(後の大給子爵家)近道が入手し、鉄道開通を機に日本初の別荘分譲地「鵠沼海岸別荘地」として開発された。 辻堂村西部は、日本海軍の横須賀海軍砲術学校辻堂演習場となった。 横須賀海軍砲術学校辻堂演習場は太平洋戦争後は在日米海軍辻堂演習場として接収され、朝鮮戦争の際には敵前上陸の演習が行われた。この演習により、ダグラス・マッカーサーは仁川上陸作戦を成功させたといわれる。 演習場が返還されたのは1959年である。跡地には日本住宅公団の辻堂団地、湘南工科大学、松下政経塾、神奈川県立辻堂海浜公園などが立地し、海岸部を国道134号が通過している(演習場時代は北側を迂回していた)。
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