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第0062話 大橋家知行地

幕府右筆大橋重保知行地

 1617(元和 3)年に鵠沼村の幕領の残り220石が譜代旗本大橋重保知行地となった。
 大橋家の知行は重保・重政の2代きりで、1672(寛文12)年に上知されるまでわずか55年間であった。この間、大橋重政は采地のうち9石余(石上付近)を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜わったことは、第0057話で記した。 

大橋重保(龍慶)

 大橋重保(おおはし しげやす)1582(天正10)年河内国志紀郡古室村(現大阪府藤井寺市)出身の旗本。幼名は勝千代。父の左兵衛重慶は豊臣秀次に仕えていたが、1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いで戦死した。勝千代は3歳で伯母にひきとられ、幼くして京都南禅寺に入り金地院崇伝に禅僧流の書の教えを受けた。元服後長左衛門重保を名乗り、片桐且元に従った後、31歳の時、豊臣秀頼の右筆となった。豊臣氏滅亡により浪人。江戸に出て、1617(元和3)年、徳川秀忠に旗本に召し上げられ、その際、鵠沼村・大庭村を合わせて采地500石を賜る。鵠沼村の村高が約600石、後に采地を賜った布施家が220石だから、大橋家采地の鵠沼村分は300石強だったと考えられる。2代将軍秀忠、3代将軍家光の右筆に任じられた。1627(寛永4)年、『大橋庭訓往来』を著す。1633(寛永10)年、右筆を辞し、剃髪して龍慶と号した。
 1645(正保2)年2月4日、江戸で入寂している。

大橋重政

 大橋重政(おおはし しげまさ)は、大橋重保の長男。1618(元和4)年、江戸牛込または鵠沼村で生まれた。幼名は小三郎。幼少時より、右筆であった父の重保に書を学び、10歳の時はじめて将軍家光に目見え、14歳で早くも家光の右筆となった。1633年、父の重保が病により右筆を辞したため、翌年に大橋家の家督を継いだ。重政の書については父の重保も一目置いており、光松山放生寺の縁起2巻を撰したときも、書は重政に任せている。一方、重政も重保を深く慕っていたようで、龍慶寿像製作を発願、彫刻を藤原真信に依頼し、自らは撰文をしたためて、郷里の誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置した。(この像は、廃仏毀釈の際、三宅村=現・松原市の大橋家に戻され、1997(平成9)年、大橋家から松原市に寄贈され、現存する。)1649(慶安2)年、采地のうち9石余(石上付近)を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜り、後にその労により賞を受けている。
 1672(寛文12)年6月30日、病により55歳で没し、龍性院殿道樹居士として空乗寺に葬られた。直後に所領は上知されて幕領となり、大橋家と鵠沼の縁は終わったが、33回忌に墓所は二人の息子によって整備され、これが1965(昭和40)年に藤沢市の文化財として「史跡」に指定された。
 今日まで続く書道の流派「大橋流」の創始者として慕われ、空乗寺で営まれた1871(明治4)年6月の大橋重政200回忌、1971(昭和46)年11月の大橋重政300回忌には多くの門人が鵠沼空乗寺に集まったという。

大橋氏領

 大橋氏が知行することになった300石余が鵠沼村のどのあたりであったかは、明確な史料や絵図が見つかっていない。また、鵠沼村に居住したのか、居住したとすれば居館がどこかも判っていない。江戸屋敷の位置は牛込郷である。
旗本大橋氏関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1582 天正10 大橋重保、河内国志紀郡古室村(現大阪府藤井寺市)に生まれる。幼名=勝千代
1584 天正12 4 9 大橋重保の父重慶、長久手に討ち死。このとき重保3歳、伯母にひきとられる
1590 天正18   〜1593(文禄2) 、重保、秀次の知遇で京都南禅寺住職以心より禅僧流の書を学ぶ
1598 文禄 7 元服(16歳)して長左衛門重保と名乗る
1612 慶長17     豊臣秀頼の右筆となる
1615 慶長20 5 7 大阪夏の陣→豊臣家滅亡→右筆を失職
1617 元和 3 3 17 徳川秀忠が増上寺に詣でたとき、訴状を捧げて言上
1617 元和 3     召し出だされて旗本となり右筆に任官
1617 元和 3     鵠沼村(300石)・大庭折戸村他の幕領分500石、旗本大橋長左衛門重保知行地となる
1618 元和 4     長男重政、生まれる。幼名小三郎 通称長左衛門
1620 元和 6 次男重為、生まれる。通称左兵衛初め重信または重澄
1627 寛永 4 重政、はじめて将軍家光に目見え。10歳
1631 寛永 8   重政、家光の右筆となる。14歳
1633 寛永10     重保、病により右筆を辞す。剃髪して龍慶と号す
1634 寛永11 龍慶、稟米300俵。重政、家を継ぐ。鵠沼等の采地500石
1635 寛永12     龍慶、牛込郷に采邑30余町
1636 寛永13     龍慶、豊島郡穴八幡社(西早稲田2-1-11)に三十六歌仙の額を揮毫して奉納
1641 寛永18 1   龍慶、還暦にあたり、故郷河内の氏神社である誉田八幡宮の宗廟縁起を修復して奉納
1641 寛永18 12   龍慶、光松山放生寺(高野山真言宗準別格本山。新宿区西早稲田)の縁起2巻を撰す
1642 寛永19     重政、牛込の神木の榎が大風で倒れ、同木で龍慶寿像製作を発願→彫刻:藤原真信
1642 寛永19 5   龍慶像完成→誉田八幡宮の大橋龍慶堂に安置
1644 寛永21 2   龍慶愛蔵の刀剣・経巻など36点、誉田八幡宮に寄進
1645 正保 2 2 龍慶、入寂。64歳。武州高田南蔵院(真言宗豊山派。豊島区高田 1-19-6)に葬る
1646 正保 3 8 重為、はじめて家光に拝謁、西丸右筆となる
1649 慶安 2 8 28 大橋重政、采地(石上付近)のうち9石余を空乗寺に寄進し、将軍家光より御朱印を賜る
1657 明暦 3 7 大橋重政の長男重好、はじめて将軍家綱に拝顔。18歳、幼名を重吉。新五左衛門と称す
1665 寛文 5 9 23 重政、寺社領御朱印の労により賞を受く
1667 寛文 7 7 重好、幕府の大番となる
1669 寛文 9 12 重好、廩米200俵を給されたが、間もなく小普請になる
1672 寛文12 6 30 大橋重政、病により没す。寿55、龍性院殿道樹居士と謚して空乗寺に葬る
1672 寛文12     重好、家督を嗣いだが、幕府の不評をかったらしい
1672 寛文12     大橋氏知行分が重政死亡により上知、幕領(代官成瀬五左衛門重治)となる
1704 宝永元 6 30 大橋重政33回忌。重好、空乗寺の霊前に父母の墓碑を建て、常夜灯一対をささげる
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 伊藤節堂:「大橋流書法の祖「大橋重政に関する年表」」『鵠沼』第24号(1985)
  • 有賀密夫:「近世鵠沼村と新田開発」『わが住む里』(1992)
 
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