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第0061話 布施家知行地

譜代旗本布施孫兵衛重次知行地

 1601(慶長 6)年3月に鵠沼村の幕領の一部220石が譜代旗本(1500石鉄炮頭)布施孫兵衛重次知行地となった。
 布施氏は三善氏の一族で、代々三河に住んだ。布施吉次は家康の自立期に仕え、領内一向一揆の争乱の中で討ち死した。孫の重直は大阪の陣などで功を積み五百石となり、のちに加増を得て千五百石となった。重次は家康の鉄砲頭として関ヶ原でめざましい働きをし、旗本に採り上げられた。 

関ヶ原の戦い

 慶長5年(1600年)9月15日午前8時、美濃関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた(関ヶ原の戦い)。当初は三成ら西軍が圧倒的に有利であった。これに対して午後0時、家康は不利な戦況を打開すべく、鉄砲隊長の布施孫兵衛に命じて、松尾山の小早川秀秋に対して鉄砲を撃ちかけさせた。これを機に秀秋は西軍を裏切って東軍に味方することを決意し、小早川軍は西軍の大谷吉継隊に襲いかかる。これに対して大谷隊も奮戦したが、さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らの寝返りもあって西軍は総崩れとなり、ここに関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったのである。

布施家と万福寺

 徳川時代の初め、鵠沼村の地頭布施家の息女は万福寺に嫁した。布施家は小田原北條家に属していた頃から、代々江の島弁財天を信仰したのである。この息女も弁財天に祈って生まれ、稀に見る美女であったと伝えている。嫁する時、弁財天の木像をマスコットとして持参し、また、家臣数名が随従土着して門徒となったといわれる。その人々は、小林清右衛門・小林八郎右衛門・小林杢左衛門・林伝十郎で、その子孫は何れも今に続いている。

布施氏領と新田開拓

 布施氏が知行することになった220石が鵠沼村のどのあたりであったかは、明確な史料や絵図が見つかっていない。また、鵠沼村に居住したのか、居住したとすれば居館がどこかも判っていない。江戸屋敷の位置も未調査である。
 ただ、1728(享保13)年に幕府鉄炮方=井上左太夫貞高が享保の改革の一環として湘南海岸に「相州炮術調練場(鉄炮場)」を設置した時、鵠沼村には角打ち(近距離射撃)場が置かれたが、その位置は南東部の現在の鵠沼松が岡から鵠沼海岸だったことから、この一帯は幕領であったことは間違いない。また、1649(慶安 2)年に地頭大橋重政が采地のうち9石余を空乗寺に寄進したのは北東部の石上付近であったことを考え合わせると、布施氏の采地は鵠沼村の北西部であった可能性が高いと考えられる。
  1679(延宝 7)年、布施孫兵衛が熄シ家へ毘沙門天立像を寄付したと伝えられている(これには別説があることは、第0033話に記しておいた)。采地内に熄シ家があったと考えたい。現在の熄シ家は仲東にあるが、江戸時代の熄シ家毘沙門堂は鵠沼神明一丁目の日本精工藤沢工場敷地にあったらしい。
 布施氏は江戸時代の初期から新田開発に取り組んだ。1655(明暦元)年4月21日に布施氏知行地に鵠沼新田が完成したと記録にあるが、その後の検地でも布施氏知行は220石で変化がない。
 「新編相模國風土記稿」によれば、1736(元文元)年になって「旗本布施氏知行地の新規開発分、新田知行となる」とあり、以後の検地では265石になっている。新田開発分が45石だったのだろうか。幕末には293.331石となっている。
旗本布施氏関係年表    
西暦 和暦 記                        事
1600 慶長 5     関ヶ原の戦いで徳川家康本陣の鉄砲頭をつとめ、東軍反転の機を与える
1601 慶長 6 3   鵠沼村の幕領の一部220石が譜代旗本(1500石鉄炮頭)布施孫兵衛重次知行地となる
1655 明暦 1 4 21 布施氏知行地に鵠沼新田完成
1672 寛文12     鵠沼村布施領・大橋領の名主ら、大庭村の引地川に新田引水用の堰を再建
1678 延宝 6 8   成瀬代官検地。鵠沼村=605石。うち旗本布施領=220石[新編相模國風土記稿]
1679 延宝 7     旗本布施孫兵衛重次、熄シ家へ毘沙門天立像(伝運慶作)を寄付
1679 延宝 7     旗本布施孫兵衛重次、知行地鵠沼村で検地施行
1702 元禄15     鵠沼村、614石6斗3升3合。うち旗本布施領=220石[相模国郷帳]
1702 元禄15 7 18 布施孫兵衛、目付として大学長廣の評定所呼出に列座
1703 元禄16 4 3 布施孫兵衛、無宿改として宍戸円喜を捕え、寺社奉行永井伊賀守に引き渡す
1735 享保20 12   鵠沼村、布施孫兵衛分(表壱番町)=220石(名主:三左衛門)[相模国改帳]
1736 元文 1     旗本布施氏知行地の新規開発分、新田知行となる[新編相模國風土記稿]
1765 明和 2 6 17 布施孫兵衛尉頼路、皇大神宮に参寵し、神願奉幣.。白絹戸張に天照皇大神宮と謹書奉納
1778 安永 7     波多野荘曽屋村を拝領
1824 文政 7     鵠沼村、665石2斗6升2合。うち旗本布施領=265石[江川代官支配]
1855 安政 2     鵠沼村、旗本布施領=266.351石[藤沢宿寄場組合村高家数表]
1868 慶応 4     鵠沼村、733.371石。旗本布施領=293.331石
1869 明治 2     鵠沼村旗本布施領、293.331石[藩知事大久保忠長]
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 荒木良正:「万福寺をめぐる伝説」『藤沢史談』第十号(1959)
  • 有賀密夫:「近世鵠沼村と新田開発」『わが住む里』(1992)
 
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