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第0272話 川袋低湿地の埋立

川袋低湿地の埋立

 片瀬川が江ノ電柳小路付近で西に大きく蛇行し、盆地状の地形を作り、そこが「川袋」と呼ばれていたことについては、第0011話で解説し、そこの低湿地が片瀬の山本家の手により、明治初期に埋め立てられて水田化が図られたことについては第0107話で述べておいた。
 高木和男氏の著書『鵠沼海岸百年の歴史』には「川袋」と題する次の記述があるので引用する。
 「川袋の停留所は、前にも書いたように、片瀬街道から分かれて来た道が、電車線にぷつかるところにあるのだが、ここから今の柳小路のあたりまでは、堤防の上を通っていたような姿になっていた。というのは、この道路と線路の東側は芦原で、水も溜っていたし、川の跡というような様子であった。電車線路の西側は、石上の停留所を出て少し南へ行ったところからは田で、柳小路のあたりまでつづいていた。この田は奥行きも深く、今の桜が岡一丁目の七番地から十七番地あたりまで、すなわち、一丁目の南半分と、藤が谷四丁目の北半分(一番地から十番地あたりまで)を含んでいて、深い田であった。
 この堤防はいつから出来たかわからないが、大正六年の大暴風の後に片瀬川の切替えを行ったものと思える。古い時代には、この部分で片瀬川は西に大きく曲って入り込んでいたようで東京国立博物館所蔵の江嶋道見取絵図(東京美術社発行)によってこのことがよくわかる。
 江の電の線路の西側の深い田は、この土地を所有した斉藤家(?)で、昭和二~三年頃、片瀬山からトロッコを敷いて、江の電の線路の下をくぐって土を運んで、長い時間をかけて埋め立ててしまって、現在のようになった。田が深くて、米の収量ほ悪かったらしいが、それでも小さな小作争議があったように聞いている。」
 これによれば、埋立は1927(昭和2)年頃からということになる。
 髙瀨笑子ミネソタ大学名誉教授は、その著『鵠沼断想』の中で次のように書いておられる。
 「杉先生はわが家にもよく来られて、父と酒を酌み交しながら閑談尽くるところがなかった。輿にのると半折や短冊に歌を書いて下さったので、今も沢山わが家にのこっている。その中に、「高瀬彌一君より今も石上(砥上)の川袋に鴫あまた降り立つ由を聞きて、西行の跡なめりと思ひて」と詞書のある歌がある。
  砥上原いまも鴫立つ澤をおきて
     いづくに古き跡をたづねむ
 右の一首は先生の「南山歌集」(昭和l二十四年、亀井高孝編)の中でも秀歌と思う。砥上ヶ原の歌を詠まれたのは昭和四年であるが、この年はお独りになられた先生をしばしばうちへお招きしたように思われる。というのは、わが家にある掛軸も短冊も、この年の作品が多いからである。 砥上ヶ原の沼沢地の埋立てが始まった頃、その頃は鎌倉浄明寺に移っておられたのだが、測量師、写真師を連れて砥上ヶ原を歩いていらっしゃる先生にお目にかかった。その後、論證を出されたと聞く。父はこの歌を彫らせて歌碑を建てたかったであろうが、昭和七、八年頃のことで経済的にすでに行き詰まっていた。
 杉家が鵠沼におられたのは、昭和五年までで、杉先生にとっては最も多難の時代であった。」
 杉先生とは第0245話で紹介した杉 敏介のことである。
 これによれば、埋立は1930(昭和5)年以後ということになる。
 1938(昭和13)年の出水(これについては別項を立てる予定)の際に撮影された写真には当時藤澤中學の生徒だった吉田敏平氏(ハス池の自然を愛する会代表、鵠沼を語る会会員)がトロッコの線路の上で写っているものがある。
 このトロッコは、現在の上岡バス停付近にあったバラ山という砂丘を崩して川袋の低湿地埋立に用いた時のものであろう。
 川袋低湿地の中央部には、1965(昭和40)年1月1日まで高座・鎌倉郡境線の名残の鵠沼・片瀬地区境界線が屈曲して残っており、地主は鵠沼・片瀬両地区にまたがっていた。従って、それぞれの地区の地主がここを埋め立てた時期はかなりの長さにわたっていたと思われる。いずれにせよ、この埋立によって造成された宅地は、最低部で海抜4m未満と、鵠沼地区の宅地の中でも最低である。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』菜根出版(1984)
  • 髙瀨笑子:『鵠沼断想』武蔵野書房(1998)
 
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