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なつかしの東屋は、たかと欽一の手で見違えるように復興されていた。ハイカラ好みの欽一の意見によるものか、池を狭めて本格的なテニスコートが2面設置されていたし、本館は更に拡張され、ダンスホールまで設けられていた。かくして湘南随一のリゾート旅館として、藤沢町を代表する地位を得ていたのである。 欽一は帰国する路可のために、東屋の隣りに瀟洒なアトリエを用意してくれていた。それがどのようなものであったかは、岡田哲明会員が専門的な立場から解説しておられるので、そちらに譲りたい。 このアトリエや東屋のダンスホールなどを利用して、路可は画塾を開き、青少年に絵の手ほどきをした。先日、林達夫氏邸を見学したとき、長男巳奈夫氏が路可の画塾で描いたという油絵が残っているのを目にした。 今日では海外留学経験者はそれこそ掃いて捨てるほどいるが、昭和初期の日本では、まだまだ希少価値があった。 ここに昭和2年4月3日の横濱貿易新報の「畫伯歡迎會」と題する記事があるので引用しよう。 藤澤町(ふじさはまち)が誇(ほこ)りとする世界的(せかいてき)大畫伯(だいぐわはく)長谷川(はせがは)路可氏(ろかし)の歡迎會(くわんげいくわい)は金子町長(かねこちゃうちゃう)以下卅六有志(いうし)の發起(ほっき)の下(もと)に一日(じつ)午後(ごご)六時(じ)より鵠沼海岸(くげぬまかいがん)東家(あづまや)に於(おい)て開催(かいさい)された主賓(しゅひん)歡(くわん)を盡(つく)し路可氏(ろかし)より色紙(しきし)一枚(まい)宛(づゝ)を贈(おく)られた なにしろ「藤沢町が誇りとする世界的大画伯」として帰郷したのである。 路可が滞仏中の1921(大正10)年、恩師= 松岡映丘は、穴山勝堂、岩田正巳、狩野光雅、遠藤教三らと《新興大和絵会》を結成していた。 帰国したばかりの路可は、第7回《新興大和絵会展》に『アンレブマン・ヨーロッパ(ギリシャ神話)』[フレスコ]、『怒』[日本画]、『黙』[日本画]を出品した。ことに『アンレブマン・ヨーロッパ』は、フレスコという技法を用い、ギリシャ神話をモチーフにした意欲的な作品の例であろう。 翌年の第8回《新興大和絵会展》には『松本博士像』[日本画]、『聖母の光栄に捧ぐる三部作』[フレスコ]、『預言者サロメ』[フレスコ] 、『キリスト降誕』[フレスコ]、『二人の天使』[フレスコ]を出品。会員に推挙された。 以後、1931(昭和6)年に《新興大和絵会》が解散するまで、会員として積極的に活動する。 翌1928(昭和3)年1月15日、路可こと長谷川龍三は知人の紹介で知り合った菊池登茂と結婚、世帯を構えた。 以後、1928(昭和3)年11月3日に長女=百世、1932(昭和7)年8月1日に次女=百合子、1935(昭和10)年4月16日に三女=清子が誕生する。 路可の美校時代にあたる1919(大正8)年以来、片瀬の山本庄太郎家の一部屋に仮聖堂が設けられ、ミサが捧げられていた。この集いに路可が出席していたかは不明である。帰国後の路可の教籍は鎌倉の天主公教会大町教会(現=カトリック由比ガ浜教会)に所属していた。 東京司教区から分離独立して横浜教区が新設された際、山本家の仮聖堂をよりどころに、《片瀬教会》が建設されるが、それは路可が鵠沼を離れた直後である。 日本初のフレスコ壁画 路可の帰国した1927年は、小田急(小田原線)の開通した年である。小田急電鉄創設者=利光鶴松(1863-1945)が、とくにルルドの聖母に捧げる聖堂を建てることを希望された長女の静江氏(1893-1971)の意を受けて北多摩郡狛江町岩戸1196に私的聖堂を建設した。その壁画制作を路可が依頼されたのである。 会堂は1928(昭和3)年7月に竣工し、長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画が壁面を飾った。その後、路可は『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し(この辺、いかにも大和絵(やまとえ)画家だ)、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品後、同教会に納められたが、現在は東京大司教館に保管されている。 静江氏の私的聖堂は、1931年東京大司教区に献納され、東京教区《カトリック喜多見教会》となった。小田急沿線では最も旧いカトリック教会である。 日本初のフレスコ壁画は、1978年、教会閉鎖の際に路可の弟子の宮内淳吉氏によりストラッポされて保存されていたが、喜多見駅前の現在地に移転後は正面壁の聖母子像だけが小聖堂に復元され、左右壁面部分は惜しくも復元されていない。 1928(昭和3)年、 現代風俗絵巻『楽堂』(日比谷野外音楽堂における軍楽隊の演奏を描いたもの)を制作し、宮内省蔵という記録がある。この現代風俗絵巻は、松岡映丘を中心とする《新興大和絵会》の中核的な日本画家12名による連作で、現在宮内庁三の丸尚蔵館に収められている。 そして11月3日、明治節に長女=百世さんが誕生し、路可は父親となった。 明くる1929(昭和4)年、1月30日から12月20日までの毎日、國民新聞に連載の大佛(おさらぎ)次郎(1897-1973)の時代小説『からす組』の挿絵を担当した。故高木和男氏によれば、「この画は毎日、路可さんのお母さんが新聞社まで届けるのだと私の祖母が話していた」とのことである(『鵠沼海岸百年の歴史』)。 連載終了後、改造社から前後篇に分けて刊行された単行本『からす組』の装幀、口絵も当然路可が担当した。 現在これらは横浜の《大佛次郎記念館》で見ることができる。 4月1日には小田原急行鉄道江ノ島線が開通し、鵠沼海岸駅が開設された。大震災の復興期以来、鵠沼南部はかつての別荘地から定住住宅地に変貌しつつあったが、小田急開通はその傾向に拍車を掛ける結果となった。 路可の滞仏中に、松岡映丘の直ぐ上の兄=松岡静雄が海軍を退役し、鵠沼での学究生活に入っていた。映丘は、小田急線開通後は時折鵠沼の兄=静雄邸を訪れ、その都度長谷川路可邸にも顔を出したようである。 この年11月、路可は初めての個展を《高座郡役所》(藤沢駅北方、現在の《藤沢商工会議所》付近にあった)で開いた。出品作は『旭に波岩』[日本画]、『雪中寿光』[日本画]、『松竹梅』[日本画]など、日本画が中心である。 世界一周 1930(昭和5)年の早春、30代の長谷川路可は、《羅馬(ローマ)開催日本美術展覧會》の日本側代表である60代の横山大観(1868-1958)、50代の平福(ひらふく)百穂(ひゃくすい)(1877-1933)、40代の松岡映丘(1881-1938)各氏の随員としてイタリアに渡航した。この他にも大智勝観(おおちしょうかん)(1882-1958)、速水御舟(はやみぎょしゅう)(1894-1935)が渡伊している。 《羅馬開催日本美術展覧會》は、1930年の4月26日から6月1日まで《Palazzo delle Esposizioni(ローマ市立展示館)》を会場として行なわれたもので、院展官展を問わず、当時画壇で活躍する第一線の日本画家たちが新作や近作を発表した大規模な展覧会であった。プロデュースは大倉財閥の総帥=大倉喜七郎(1882-1963)、運営には横山大観があたっている。時の首相ムッソリーニ(1883-1945)を総裁にかかげて行われたいわくつきのもの。この時の代表は、〈Cavaliere Corona de Itaria(イタリア共和国功労勲章)〉をイタリア政府から受けている。 路可はこの機会にヴァチカンを訪れ、第260代教皇=ピウス11世(Pope Pius XI)(在位:1922-1939)に拝謁。その折『切支丹曼陀羅』[日本画]を献呈している。 システィナ美術館に『Introduccion del Cristianismo en Japon』[日本画]が1925年に寄贈されているから、その際も拝謁の可能性があるが、いずれにせよ路可が拝謁した最初の教皇である。 大倉喜七郎は、1か月余りにわたるこの展覧会の慰労のために、帰途は欧米を経由する世界一周旅行を一行にプレゼントし、年末には銀座資生堂ギャラリーにて《世界一周スケッチ展》が開催された。 帰国した路可は、浜松の洋画家=佐々木松次郎(1897-1973)らと《カトリック美術協会》を結成した。翌々年の第1回《カトリック美術協会展》より、渡伊前年の第10回《カトリック美術協会展》までほぼ連続して(第7回だけ記録が見あたらない)出品し、中心的な役割を果たした。 翌1931(昭和6)年6月に、早稲田大学建築学科で路可が講演をした際、標本室でフレスコの実演をして見せた。その後、この絵の上から塗料が塗られ、長期間所在が不明のままであった。 それが1996年になって発見され、6層の塗料を丁寧に剥がして、路可の弟子、原田恭子、友山智香子両氏の手で修復がなされた。1998年、この建物が取り壊されることになり、建物の外壁そのものを切断し、その年に開設された《會津(あいづ)八一(やいち)記念博物館》に収納、展示(http://www.waseda.jp/aizu/col3e.html)されることになった。その経緯は、同館の『研究紀要』第1号に有田 巧氏が報告している。 《新興大和絵会》はこの年に解散し、路可は『湖畔のまどひ』[日本画]を第12回《帝展》に出品した。以後、《帝展》には《新文展》に替わる1934(昭和9)年まで毎年出品する。 鵠沼時代の後半になって、路可は自宅アトリエなどで児童と青年たちのための画塾を開いた。青年には石膏デッサンや油彩といった洋画の技法を教えたらしい。教え子には現在も鵠沼に御健在の方が多数おられる。 1932(昭和)7年、路可は当時オランダ領インドシナ(蘭印)だった現在のインドネシアのジャワ島、バリ島などを歴訪し、その印象を『熱国の夜』[日本画]として制作、 第13回《帝展》に出品する。 この外遊期間中、8月1日に二女=百合子さんが誕生した。 大和學園 カトリックの敬虔な信者で教育者、伊東静江(路可が日本最初のフレスコ壁画を描いた喜多見教会を建てた)によって 1929(昭和4)年小田急江ノ島線開通に合わせて高座郡大和村(現大和市南林間)に設立された《大和學園女學校》は、当時一般的であった良妻賢母型の女子教育の概念を大きく覆し、土に親しみ自然に触れる中で神の摂理を識ることを教育理念に掲げた革新的な学校として始まり、江口隆哉(舞踏)、久保田万太郎(演劇)、四家文子(音楽)といったその道における著名な教員が招かれた。長谷川路可もその一人ということになる。 翌1930年には《大和學園高等女學校》と改名。1932年には《大和學園小學校》、1935年には《大和學園幼稚園》を開設。伊東静江の教育目標である「カトリック精神による豊かな人間形成」は、初等教育から中等教育(戦後は短大も開設)にわたる一貫した教育制度によって形作られることとなった。路可は当時自宅のある鵠沼から最も近いカトリック系ミッションスクールであった同校の美術教師として、1929年から、恐らく目白に転居する1937年まで教壇に立った。 また路可は、学齢期になった長女=百世さんを小学校に入学させた。 なお、《大和學園高等女學校》は戦後の新学制で《大和学園女子高等学校》になり、さらに1979年《聖セシリア女子高等学校》と改めて今日に至っている。鵠沼には《大和學園高等女學校》での路可の教え子という方も何人かおられる。 徳川邸壁画 1933(昭和8)年、あのフランスに向かう「加茂丸」の船上で知己を得た尾張徳川家の当主=徳川義親侯爵が、東京目白にあった明治期からの戸田(紀州徳川家の姻戚)邸跡へイギリスのテューダー様式を模した自邸(設計:渡辺 仁(じん))を建てることになったとき、路可は階段室、食堂の上部に『狩猟図』、『静物画』というフレスコ画を描き、インテリアもデザインした。これがきっかけで徳川侯爵との交流が深まることになる。この目白の徳川義親邸は、東京大空襲の戦火からも免れ、女子學習院の仮校舎に用いられたり、戦後は日本社会党結党の舞台になったりという話題があるが、1968(昭和43)年に解体され、長野県野辺山高原に移築された。解体の時、路可のフレスコ画は路可の弟子=宮内淳吉氏の手で丁寧にストラッポされたが、未だに移築先に復元されていない。 移築された建物は、当初ホテルとして活用された。現在は《八ヶ岳高原ヒュッテ》と名を変え、レストランとティーラウンジとして、夏休み、ゴールデンウイークのみ営業している。山田太一原作のTBSドラマ『高原へいらっしゃい』の舞台となり、人気が出た。近くには《藤沢市八ヶ岳野外体験教室》がある。 続けて1935(昭和10)年、徳川邸の敷地内に建てられた《財団法人徳川黎明会徳川生物研究所》の建築装飾に従事し、天井画を描いた。これは現存する。 この年の春から夏にかけて、台湾を巡り、旅行中の4月16日に三女=清子さんが誕生した。この旅行では旅先の台北教育会館で個展を開いたりしている。 1935(昭和10)年帝展の改組で画壇が大きく揺れ、松岡映丘は長年勤めた母校東京美術學校を辞し、同年9月に門下を合わせ《国画院》を結成した。 小村雪岱、吉田秋光、服部有恒、穴山勝堂、高木保之助、岩田正巳、山口蓬春、狩野光雅、吉村忠夫らと共に長谷川路可も結成メンバーの一員となった。 国画の創造を目指し、大和絵を中心としながら展覧会は洋画、彫刻にも門戸を開いたが、1937(昭和12)年第一回展を開催したのみで、翌年の映丘の死去により展覧会活動を休止、研究団体として存続し、1943(昭和18)年解散した。 1936(昭和11)年、《フォンテーヌブロウ研究所》におけるフレスコ画、モザイク画の師=Carlo(カルロ) ZANON(ザノン)が来日し、路可を訪ねて鵠沼にも滞在した。東屋には和室しかないため、1933年伊東将行の末娘=政子夫妻が建てた洋式の《鵠沼ホテル》に宿泊したという。 文化服装学院 並木伊三郎が、遠藤政次郎とともに1919(大正8)年、当時の東京赤坂区青山南町に開設した《並木婦人子供服裁縫教授所》は、1935(昭和10)年2月5日財団法人《並木學園》に組織変更を行い、学校としての基礎が固められ、1936(昭和11)年10月校名を《文化服装學院》に改め、時代の変化を先取りした教育内容の拡充を行った。この段階で徳川義親の紹介(松本亦太郎の紹介という説もある。恐らく双方であろう)で《Ecole du Louvre》で西洋服飾史を修めた画家=長谷川路可の存在を知った並木は、1937(昭和12)年2月、遠藤を鵠沼の路可宅に派遣し、説得に当たらせた。遠藤政次郎は雛人形を手みやげに路可宅を訪れ、説得した。路可は一旦断るが熱心な説得に折れ、4月から教壇に立つことを承諾した。以後、終生文化服装学院との関係は続くこととなる。 東京目白の徳川侯爵邸周辺に造成された分譲地を優先的に購入できた路可は、先ずアトリエを建て、次いで母屋を建築して1937(昭和12)年に一家は転居する。 かくして長谷川路可の10年にわたる鵠沼時代は終わりを告げるのである。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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