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落々荘と樂々荘と悠々荘『悠々荘』は芥川龍之介鵠沼時代に書かれた短編で、「サンデー毎日」1927(昭和2)年1月号に掲載された。震災後の鵠沼海岸別荘地の様子が描かれている。友人と三人で別荘地を歩いていて、空き家になっている別荘の敷地に入り込んで、持ち主の様子などをあれこれ想像してみるといった話である。荒廃した風景や瀟洒な廃屋の描写に、当時の龍之介の心身の衰弱が、また、死を決意しながらも「瀟洒で悠々と」見えることを心した龍之介の姿を見ることができる。 青空文庫などで読むことができる。 この舞台はいったいどこなのか。 岸田劉生『日記』1923(大正12)年1月28日の記載にこうある。 「仕事中来客、落々荘とて近処の別荘の主人、女中とものいとこという人、まだ若い人だが沢田さんとも知り合いにて画がすきの由。」 二宮さんの名はこの日以降、9月16日劉生一家が名古屋へ向けて出発する日まで、『日記』の中には25回も書かれており、親しく付き合い始めた様子がわかる。しかし、二宮氏の人物像については、上記の他に三井物産の千葉清と親交があったらしく、劉生を伴って鵠沼の別荘を訪問したことが判る程度である。 また、「落々荘とて近処の別荘」というのが具体的にどこにあったのかも、『日記』からは読み取れない。 《鵠沼を語る会》の会誌『鵠沼』第93号に掲載された有田裕一・佐藤和子会員の「芥川の短編『悠々荘』は何処?」によれば、松本別荘南方の道路がクランク状になっているところの南西角に「樂々荘」の大きな看板を掲げた家があったことを、故葛巻左登子会員(芥川龍之介の姪)が記憶されていて、これが芥川の短編『悠々荘』のモデルではないかと推測されていたという。 有田会員が旧土地台帳によりこの土地の所有関係を検証してみたところ、1918(大正7)年11月に横浜市中村町字平楽の二宮氏が大給近孝氏から購入し、1932(昭和7)年に阿部氏が二宮氏から購入していることがわかった。 松本別荘の劉生宅は関東大震災で倒壊したが、震災後建て直され、そこに住んだのが詩人の國木田虎雄(小説家國木田獨歩の長男)である。芥川龍之介は1926(大正15)年に東屋の貸別荘イ-4号に住んだが、鵠沼永住を望み、國木田虎雄が転出する噂を聞き、松本別荘の下見に訪れた。その時、空き家になっていた落々荘に入り込んで、これが『悠々荘』として作品化された。芥川は鵠沼に永住せず半年後に自殺した。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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