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2012年1月1日からは毎日1話を更新という以前のペースに復帰したが、今後は無理にそのペースを守ることなく、多少ゆとりを持って進めようと思う。 ところで、第0257話まで進み、そろそろ大正時代も終わるなと思ったとき、関東大震災以前の話題をいくつか落としていることに気付いた。これから編年記順という原則から若干外れて、いくつかの話題を記載する。 藤沢市道鵠沼新道線205号(通称:高瀬通り)藤沢駅から鵠沼海岸へ向かう交通機関には、小田急江ノ島線のほかに《こまわりくん》というニックネームの江ノ電バスの小型路線バスを利用する方法がある。その停留所の呼称は、〈藤沢駅〉から〈橘通り〉〈郵便局前〉〈高瀬通り〉〈上岡〉〈中岡〉〈熊倉通り〉そして終点の〈高根〉である。すなわち、施設名・旧字(あざ)名・道路区間の呼称の3種類が混在している。このルートを、文字通り私財をなげうち、独力で開通させたのが、〈高瀬通り〉のバス停に名を残す髙瀬弥一だった。もっとも、現在このバス停があるあたりは、開通当時は〈宮崎町〉と名付けられており、《高瀬通り》とは、石上通り(旧江之島道)から分かれて、江ノ電石上駅脇の踏切を通り、旧秩父宮別邸に至るほぼ直線の区間を呼んだものらしい。髙瀬弥一は先に第0195話で紹介した鵠沼地内(上山本橋~石上~鵠沼停留所~海岸)の道路開発にも関係したようである。 《高瀬通り》は今日《鵠沼新道線205号》という市道になっているが、実は髙瀬弥一の提案により、数人の地主の協力によって私道として敷設された。道路は土地提供者の名を冠して《上郎(新二)通り》《宮崎(寛愛)町》《高松通り》《小川町》《熊倉通り》などと名付けられた。土地提供を渋る所有者からは、弥一が自費で買い上げた。弥一は完成後にこれを藤澤町に寄付するつもりだったらしく、ここを通行する車両などから別に通行料などは取らなかった。しかし、藤澤町は当初これを受け取らなかった。そのために弥一は膨大な地租を負担せねばならず、たちまち経済的に行き詰まって破産状態にまで追い込まれる結果となったといわれる。 これがいつ市道になったかについては調べていない。 着工は1922(大正11)年といい、前年測図の1:25,000地形図には記載されていない。しかし、関東大震災の直前には現在の〈中岡〉バス停付近から後の湘南学園敷地を横断する支線で《鵠沼海岸別荘地》と結ばれていたようである。関東大震災で被災し、鵠沼を去ることになった岸田劉生一家は、1923(大正12)年9月19日、「新しくできた道を自働車で藤澤駅に向かった」と『日記』にある。 自動車交通を念頭に置いた道路には、道幅の広さと屈曲の少なさが要求される。公共事業として敷設される計画道路なら、法的な措置もあり、強制的にでも道幅と直線コースが確保できる。また、《鵠沼海岸別荘地》のように、何もない砂原に道路を通すなら、それも可能であった。 しかし悲しいかな、無人地帯とはいえ、砂丘列の間の細分された畑地や果樹園の農道を繋いで拡幅する作業である。どうしても屈曲が多くならざるを得ない。 加藤徳右衛門は『現在の藤澤』の中で「地価も反当千円は難かりしも、一度道路の開通乗合自動車は爆音を立てて往来する状態となりて忽ち地価は暴騰し、沿道は坪当たり二十円台を呼ぶに至ると、日に月に別荘たり住宅たるもの建設さるは余りに道路の効果の顕著たるに驚嘆さる」と記している。 かくして1925(大正14)年5月、全長2970mの鵠沼新道は開通した。年末には東海道線、東京-国府津間の電化が完成し、交通アクセスの便が増した。 その翌年、東屋とその貸別荘で暮らした芥川龍之介の死後発表された『歯車』の冒頭に、「僕は或知り人の結婚披露式につらなる為に鞄を一つ下げたまま、東海道の或停車場へその奥の避暑地から自動車を飛ばした。自動車の走る道の両がはは大抵松ばかり茂つてゐた。」とある。その道である。 やがて昭和の初めごろにはこの道を通ってバスが藤沢駅と鵠沼海岸海水浴場や海岸通り大曲を結ぶようになった。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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