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第0237話 大正関東地震

 この「鵠沼を巡る千一話」は、2011年1月1日に開始し原則毎日新しい話題を提供してきたが、236話でストップを余儀なくされ、様々な方にご心配をかけることになった。言い訳になるが、その理由を列挙しておこう。
① パソコンが故障し、修理に半月かかったことが最初の大きな理由。
② 3月に治療が一段落した肺の小細胞癌が肝臓に転移したことが8月に発見され、月末から月初めにかけて3泊4日の入院加療をこれまで3回行ったこと。
③ 鵠沼郷土資料展示室の10月15日(土)からの展示「鵠沼と岸田劉生」の準備に多くのエネルギーを割いたことが最大の理由。来年1月15日まで展示中。ぜひご来室を。
④ 藤沢市生涯学習大学「かわせみ学園」の講師を引き受け、本日(2011年11月7日(月))終了した。当初受諾した内容と課題が異なっていることが間際になって判明し、あわててプレゼンテーションやレジュメを作り直すことに手間取ったためである。

大正関東地震

  1923(大正12)年9月1日11時58分32秒、神奈川県西部を震源として発生したM7.9の地震をいう。
 北米プレートの下に潜り込むフィリピン海プレートの跳ね上がりに起因すると考えられ、震源は小田原直下から岩盤の破壊が始まり、北アメリカプレートとフィリピン海プレートがずれ始めた。破壊は40~50秒かけて主に相模トラフ(舟状海盆)から放射状に広がり、北は現在の川崎市の地下35km、南は現在の館山市の地下5km、東は房総半島端にまで広がり全体で長さ130km、幅70kmの岩盤(断層)が平均で2.1mずれた。
 震源の真北に当たる鵠沼を含む相模湾岸の震度は7と想定されている。
 地震発生の数分後、鵠沼海岸には7m台の津波が押し寄せた。現在の鵠沼海岸一丁目あたりの砂浜には標高10m程度の海岸砂丘列があったため、津波はその砂丘を浸食しながら肥上道付近まで達し、東屋の庭池にも海水が入り込んだ。津波は引地川、境川を遡上し、引地川では清水橋付近まで、境川では石上付近まで達したといわれる。
 鵠沼海岸では約90cmの地盤隆起が見られ、300m以上の海退が見られた。すなわち、砂浜の面積が拡大した。江の島での隆起量は1.5mとされ、海面下にあった海食台が水面上に出現した。
 地下水位が比較的高い鵠沼海岸別荘地(現鵠沼松が岡一~四丁目)では広範な液状化現象が見られ、各別荘の井戸や庭池では砂混じりの地下水が噴き上がる噴砂現象が見られた。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 神奈川縣:『關東大震災特ニ鵠沼別荘地ニ於ケル状況』大正十三年一月十五日神奈川縣地震調査報告(1924)
  • 阿部良夫:「關東大震災特に鵠沼海岸別荘地ニ於ケル状況」震災豫防調査會報告. 第100號(甲)(1925)
 
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