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大正十年測図二万五千分の一地形図『江ノ島』『藤澤』図幅我が国に於ける国家規模の近代測量法に基づく最初の中縮尺図は、第0116話で紹介した参謀本部陸軍部測量局、二万分一迅速圖であり、次いで1890(明治23)年から整備が始まり、1916(大正5)年に全国整備が完了した参謀本部陸地測量部五万分の一地形図である。この地形図は「参謀本部の地図」 あるいは「陸測の地図」と呼ばれて親しまれた。続いて1910(明治43)年から大都市や軍事施設周辺等を対象に二万五千分の一地形図の整備が始まった。以前に作成した二万分の一迅速図を編集修正して作成した地域もある。 鵠沼地区を含む「藤澤」「江ノ島」図幅の測図が行われたのは1921(大正10)年だが、発行されたのは震災後の1923(大正12)年11月25日であった。大正関東地震による地盤隆起で、大規模な海退が見られたから、海岸線の位置が発行段階では正確でなかったことになる。その後、1929(昭和4)年の小田急江ノ島線の開通により、直ちに鉄道路線の補入版が発行されたが、鉄道補入のみで他の部分は変更されなかった。この版は戦後まで続くのである。しかも、戦時中は防諜目的で発売そのものが制限されていたから、入手は困難だった。軍港横須賀を擁する三浦半島部は、「要塞地帯」ということで発行されなかったし、「鎌倉」図幅もほとんど白紙のような状態だった。 二万五千分の一地形図は、1964(昭和39)年の第二次基本測量長期計画から本格的な全国整備が始まり、1983(昭和58)年に、沖ノ鳥島の測量をもって全国整備が完了し、現在は五万分の一地形図に代わる国土基本図に位置づけられている。 道路網の修正さて、震災直後から戦後まで24年間も使われた1921(大正10)年測図の二万五千分の一地形図「江ノ島」図幅には、看過できない誤りがある。それは、鵠沼海岸別荘地北端部の道路網である。現在の湘南学園あたりから本村に向かう道路には、存在したと思えない道路が書き込まれていたり、あるはずの道路がなかったりするのである。もちろん、その当時に私が生きていたわけではないから、正確なことは不明だが、どなたに訊いてもそんな道はなかったということである。このルートは、別荘地の子どもたちの鵠沼尋常高等小學校への通学路だったから、当時から住んでおられる方には親しい道のはずである。 昭和に入ってから発行された『大藤澤町復興市街圖』(1930)にも、1942年に海軍が作った演習用地図にも描かれていない。両図とも正確な測量に基づく地図ではなく、「絵図」に類するものではあるが。 1月15日に幕を閉じた鵠沼郷土資料展示室の「鵠沼と岸田劉生」展においては、1921(大正10)年測図の二万五千分の一地形図「江ノ島」図幅を意識的に多用した。劉生の鵠沼時代に測図されたものだからである。上記の誤りの箇所は劉生の住んだ松本別荘からほど近く、劉生の行動範囲内にある。そこで、海軍演習用地図を参考に修正を試みた。下図の右が修正したものである。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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