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《「関東大震災》の場合、『震災豫防調査會報告』というものが出されていて、1925(大正14)年1月10日に報告された第百號(甲)に、震災当時鵠沼海岸に住んでいた理学士、阿部正夫による「關東大震災特に鵠沼海岸別荘地ニ於ケル状況(A personal experience of the great earthquake in the village of Kugenuma near Kamakura)」という寄稿文が掲載されている。 この文の紹介は、委員の一人寺田寅彦が書いている。寺田寅彦については、第0154話でちらっと触れた。彼は鵠沼(湘南学園の南方)に住んだことがあるという話を聞くが、否定される方もあり、未調査である。 文中に「松本松濤園内ノ一洋館デ間口奥行凡二間ノ二階屋ハ水平ノ長サヨリモ高サガ遙ニ大ク、形トシテハ安定デナイニ拘ラズ傾イタノミデ、倒レモ叉甚ダシ崩レモシナカッタコトハ注意ニ値スル。」とあるのは「松本陽松園」の間違いで、当時岸田劉生がアトリエとしていた建物のことであろう。 阿部正夫氏は、鵠沼海岸別荘地の仲通り有田商店裏手、現在の小田急踏切(当時は開通前)あたりに住んでいたらしい。詳細は未調査だが、ネット検索によれば相対性理論の紹介論文を書いているから、物理学者であったと思われる。科学者の目でとらえた鵠沼の震災の記録として、貴重なものといえよう。 以下にその鵠沼海岸別荘地の震災の様子を述べた主要部分を再録した。 本文の全文をご覧になりたい方は、下の[参考サイト]をクリックすると見られる。 關東大震災特に鵠沼海岸別荘地ニ於ケル状況○概 略 (前文略)大正十二年九月一日未明カラ風(西南)雨オコリ、午前七八時頃最モ暴シク、九時過ギカラ風雨止ミ、シバラクシテ快晴靜穩トナル。十一時五十分頃(五十分卜十二時トノ間也。正確ナ時間ハワカラズ)自分ハ室内二居タガ、急ニ戸、障子、柱等ガガタガタト揺レ、間モナクドーント強イ音響ト共ニハゲシイ強イ上下動ガ一囘アッタ。此時ホド水平動ヲ雜へナイ純粹ナ上下動ハ今迄自分ノ出會ハナイ處デアル。強イ上下動ハスグ二止ンダケレドモ、用心ノ爲ニ自分ハ縁側カラ庭ニ下リタ。庭ニ下リタ時ニハ地震ハ全ク止ンデ居リ、庭ニ立ッテ家ヲカヘリ見ルニ何ノ破損モナイ。「出ルニハ及バナカッタ」ト思フ間モナク遽ニ足元ガユラギ出シ、直ニ自身ハ地上ニタホサレタ。側ノ松ノ小木ニツカマッテ立チ上ルト叉直ニハネトバサレル。上下トナク、前後トナク、左右トナク、メチャクチャニ土地ガ震レテ立チ上ル事ハ出來ナイ。丁度暴風時ニ甲板ニ在ル様デアル。家ノ近クニ居テハ危險ト思ッタノデ地上ヲハッテ門ノ方へト向ッタ。 高サ一間バカリノ竹垣ガ非常ニユレテ居タ。 ザーットイフ音、ゴーットイフ音デ四邊ハミタサレル。之ガ近クノ松原ノ松ノユレル音デアッタカ、家ノ崩レル昔デアッタカ、垣ノ音デアッタカ、少シモ判ラナイ。四方ハ黄バンデ見エタ。之レモ雲ノ加減カ、砂埃ノタメカ、或ハ單ニ自分一個ノ感ジニスギナカッタノカ、ソレモ明デナイ。 話ニダケキイテ居タ大地震ガ今現ニ起ッテ居ルノダトイフ様ナ感ジガシタ。ヤガテ地震ハ殆ド止ンダノデ、立チ上リ、フリカヘルト我家ハツブレテ居ル。右隣ノ家モツブレテ居ル。左隣ノ家モツプレテ居ル。急イデ屋根(今ハ地ノ上ニハッテ居ル屋根)ニカケ上ッタ處ガ、丁度壁ノヤブレタ下ニ、家族四人、即チ妻、妹及幼児二人ガカタマッテ居タ。十分餘リカカッテ四人トモ外ニ出ル事ガ出來タ。幸ニ誰ニモ負傷ハナカッタ。 家族一同庭ニ出ルト間モナク津浪ガ來ルカラトノ注意ガ傳ハッテ來タノデ、數町東北ノ丘ニ避難シタ。餘震ハシバシバアッタガ、立ッテ居ラレヌ程強イモノハナカッタ。餘震ノ囘數ヤ時間等ニ就イテハ避難ニイソガシイ自分ハ正確ニ記憶シテ居ナイ。 ○地震ノ強サ、繼続時等 以上ノ有様故地震ノ強サ等ヲ數量的ニ表ス事ハ正確ニハ出來ナイ。タヾ推測ヲ記サウ。 初震ハガタガタドンデ形容スルガ適切デアル。此時間ハ三四秒或ハ長クモ六秒ヲ出デマイ。其後凡二十秒位ヲ經テ本震ニナッタ。 本震ノ繼続時(人體ニ感ズル)ハ二、三分デアラウ。此間ハ誰モ地上ニ於テモ、室内ニ於テモ立ッテ居ル事モ、歩ク事モ出來ナカッタ。家ハ殆ドタホレタ。土地ガグルグルトマハッタトイフ者モアリ、土地ガ波ヲウッテヰタトイフ者モアル。此等及自分ノ經験カラ考ヘルニ震動ノ有様ハ上下動卜水平動ノ混合デアリ、強サモナカナカ大カッタ。若シ曲線ヲ以テ地震ヲ象徴的ニ現スナラバ第一圖ノ如キモノデアラウ。 此圖ハ數量的ノ事ヲ表スノデハナイ。タトへバ線間ノ幅ガ週期ヲ表ハスノデモナク、又上下又ハ左右ノ長サガ振幅ヲ表ハスノデモナイ。タヾ初震ノ震動ハ單純デアリ、本震ノハ複雜デアッタ有様ヲ現スノデアル。 週期ハ、時計ノ振子ヤ成人ノ脈搏ト、同ジ程度デアッタラシイ。 ○津 浪(第二圖參照)※図は省略 津浪ハ地震ノ數分後ニ一囘來タ。平常ノ渚カラ凡二町乃至二町半ホド迄來タ。但シ土地ノ高低及道路ノ關係上一様ニイフ事ハ出來ナイ。東屋(旅館)デハ庭ノ小松ノ高サ位、又家ノ床上二尺餘リ位ノ高サニ水ガ上リ疊(地震デツプレナカッタ家ノ)ガ流サレタ。其後水ハシヅカニ引イテ一時半頃ニハ東屋ノ庭デ足ノクルブシヨリ一寸五分ホド上ヲヒタス程度ニナッタ。砂濱トコレニ平行ナ道路トガモト三、四尺餘モ高低ノ差ノアッタモノガ浪ノタメニ略平ニナッタ。松等ノ樹木ハ陸地ノ側ニカタムイテ居ル。家デ流サレタモノハ殆ドナイ。夫故津浪ハ大速度デ來タノデハナク、引ク時モ亦穩ニ徐々デアッタモノト推測セラレル。 ○土地ノ龜裂 龜裂ハ多クナイ。之ハ砂地デアル故ト思フ。特ニモリヲシタ庭等ニハ龜裂ヲ生ジタモノガ多イ。俗稱高砂附近ノ丘ニ於テ松林ニテ且ツ雜草藤蔓ノ生へタ處ニハ少シモ龜裂ガナイガ、之カラ數間ヲ隔テタ處ニテ草木ヲトリサリ建築用地トシタ處ニハ、大イ龜裂ガ多數ニアッタ。道路ニツイテハ、電車停留場カラ郵便局ヲ經テ海岸通リニ至ルモノニ龜裂ガ多ク、他主ニハ殆ド生ジテ居ナイ。之ハ前者ハ此別荘地ノ幹線トモイフべキモノデ、砂利ヲウメタモノデアル故デアラウ。龜裂ノ幅ハニ寸乃至一尺餘、深サハ三四寸乃至一尺、稀ニハ一尺五寸ニ及ブモノモアル。龜裂ノ長サハ一間、二間ノ程度デアル。 此様ナ長サノ龜裂ガ道路ニ平行ニオコリー尺位ノ間隔ヲオイテナラビ、之ガ四十間ホドニモ及ンダ處モアル。或ハ叉道路ニ略直角ニオコリ二尺乃至一間ノ間隔ヲオイテ並ビ之レガ十間乃至二十間ニ及ブ處モアル。海岸別荘地ノ數丁西北ノ俗稱石上、川袋邊ノ道路デハ龜裂ガ縦横ニ入リ、土地ガ凡半疊乃至一疊位ノ面積ノ塊ニ分レタ處モアッタ。 龜裂ノ向キハ一様デハナイガ、略西南ニ走ルモノガ多イ。 ○家屋ノ崩壞、電柱ノ傾キ 家屋ハ殆ド崩壞シタ。シカモ多クハ本震ノハジマッテカラ一分位デ倒レタラシイ。家屋中殆ド傾カナイモノ及ビ傾イテモ人ガ其中ニ住ミ得ルモノハニ十軒餘リデアル。住居ニハ堪へナイガ倒壞ト迄イフ程デナイモノヲ加へテモ五、六十位デアラウ。其以外ノ二百軒タラズハ(1)又ハ(二)ノ様ニ(圖略ス)屋根ノー部叉ハ全部ガ土地ニ落チル程ニ崩レ、二階建カ一階建カ見分ケノツカヌモノガ多イ。 倒レタ方向ハ殆ド東南デアッテ、崩壞家中約一割ハ丁度逆ニ西北ニ倒レテ居ル。此土地デハ道路ガ東南及東北ニハシリ家屋モ此ニ平行デアルカラ、家ハ東南(或ハ西北)東北(或ハ西南)ニ傾キヤスイ理デアル。叉東南ノ方ニハ縁側ガ多イカラ、西北ヨリモ東南ニ傾キヤスイ傾向モアラウ。シカシ傾ノ方向ガ大體定マッタ主ナ原因ハ地震ノ性質ニアル事ハ疑フ餘地ハナイ。土臺ガ土臺石カラヌケテ、一尺モ東南ニズレテ居タ家モアル。 電柱ハ東南へハシル道路ニ沿ッタモノハ傾キ方少ナク、東北ニハシル道路沿ヒノモノハ傾キガ大イ。其中東南ニ傾イタモノ、數ハ西北ニ傾イタモノヨリ遙ニ多イ。又東南へノ傾キハ鉛直線ヨリ凡二十度乃至三十度位ノモノ多ク甚シキハ四十度ヲコエルモノサヘアルガ、西北へノモノハ多ク十度以内デアル。家屋ノ倒レタ方向卜電柱ノ傾キノ方向トハ一致シテヰル。龜裂ノ方向ハ此等ト甚ダ概略ヲイヘバ直角ヲナスト考へラレル。 崩壞シナカッタ建築物ハ主トシテ小形ノ藁葺家、トタン屋根ノ家デアリ、其中デモ新シイモノガ殘ッテ居ル。田舎ノ醫院、郵便局、役場等二多ク見ヲレル型ノ舊式ノ木造洋館ハ瓦葺デモ倒レテ居ナイモノガ多イ。松本松濤園内ノ一洋館デ間口奥行凡二間ノ二階屋ハ水平ノ長サヨリモ高サガ遙ニ大ク、形トシテハ安定デナイニ拘ラズ傾イタノミデ、倒レモ叉甚ダシ崩レモシナカッタコトハ注意ニ値スル。叉田ノ上ニ砂及塵挨デウメタテラレ其上ニ二十坪ホドノ和風木造ノ平屋ヲ本年夏ニタテタ處ガアッタ。其數軒ガイヅレモ殆ド傾キモ少ナカッタ。其原因ハ家ノ新シイ事、トタン葺ノ事等ニモヨルノデアラウ。シカシ地盤ノ悪イ處デ被害ノ小イノハ不思議デアル田ノ上ニウメ土ヲシタ場合ニハ振動ノツタハリ方ガ特殊ナノデアラウ。殊ニ土盛リヲシテ日ノ淺イ場合ニハ左様ナノデハアルマイカト推測サレル。 ○片瀬ノ五重塔、戸塚ノ堤、王子ノバー(省略) ○鵠沼ニ於ケル地震ニヨル死者 地震ニヨル即死者ハ四十四、五名、之ニ重傷ノタメ二三日後ニ死亡シタモノヲ加へテ凡五十名デアル。從ッテ四軒半ニツキ一人ノ死亡者ノ割デアル。在住人凡六百人、避暑客凡九百人(八月中旬避暑客二千人デアッタガ大震ノ二三日前ニ帰宅者多シ)トミテ千五百人トスレバ即死ハ三十人ニ一人デアル。此内家外ニ居タ人ヲ半數トスルトキハ家ノ内ニ居夕人十五人ニツイテ一人死亡、叉家カラノガレ出ナカッタ人ヲ家内ニ居タ人ノ六割トミレバ九人位ニツキ一人ノ壓死トイブ事ニナル、此計算ハ單ナル推算ニスギヌケレドモ地震ニヨル壓死者ノ割合ヲ知ル多少ノ參考ニモナルデアラウ。(終) 補遣 其一 地震ノタメニ井戸ハ殆ドスベテ濁ッタ。其翌日飲科ニ用ヒ得ル井戸ハ大変少數デアッタ。土地ノ一部カラ水ヲフキ出ス處モアッタ。自宅ノ前ノ道路ニモ一ケ所直径約四、五寸ノ穴ガ出來ブクブクト水ガ湧キ出テ居タ。自分ノ庭デハ地震ノ一年ホド前ニポンプ井戸ヲウメタノガ、地震ノタメニウメタ土ガ墳キ出シ其穴カラ白濁シタ水ガアフレ出テ庭ノー隅凡參四十坪位ヲ六、七分位ノ深サ浸シタ。 其二 地震ノ時ニ屋内ニ居ルガイヽカ戸外ニ出ルガヨイカトノ議論ヲキクガ此度ノ地震等デハ屋内ニ居タ人ハ縁側ヤ玄關ノ極メテ近クニ居タ人以外ニ逃ゲ出ス暇モナカッタ。又棚トカ机等ノ側ニ居レバ安全デアルト俗ニイッテ居ルケレドモ、自身ノ家デハ木箱モ仏壇モ食器入ノ棚モスベテ倒サレタ。簞笥モ二ツカサネテアル内ノ下ノモノハ倒レナカッタガ上ノモノハ大抵倒レテオチタ。階下ノ室ニアッタ一個ハ丁度落チヤウトシタ時ニ天井ガ上ニ落チテ來タタメデアラウ、天井卜下ノ簞笥トノ間ニハサマレテ傾イタマヽ落チナイデ居タ。其代ニ丁度其上ニ當ル處ノ二階疊ハウラカへシニナッテ落チ、其上ニ敷イテアッタ夜具ガ全ク逆ニ即チ下カライッテカケブトンシーツ、シキブトン、疊ノ順ニ重ッテ居タ。又可ナリ丈夫ニ作ッタ木製ノ机モ椅子モツブサレテ居タ。殆ド破レズ叉倒レナカッタノハ非常ニ丈夫ニ且安定ニ出來テ居タ食卓ト皮張リノ 大形安樂椅子トデアル。ソレ故地震ノ時ニ本箱等ノ前ニ居ル事ハ此度程ノ強サノ地震ニ於テハ安全力否カ明言出來ナイ、尤モ茶簞笥ノ傍ニ居タタメニ梁ニウタレルノヲマヌカレタ人モ數人アッタラシイ。シカシ又簞笥ガ倒レタタメニ怪我ヲシタ人モアル。夫故棚ヤ簞笥ノ前ニ居ルヨリハ側面ニ居ル方ガヨイ。丈夫デ安定ナ安樂椅子ノ側ニウヅクマッテ居レバ大抵安全デアル。シカシワザワザ此等ノ側近ク行カウニモ歩ク事ガ出來ナカッタノデアルカラ、偶然ヨイ場所ニ居タ人ガ助カッタトイフヨリ外ハナイ。不思議ニ思ハレルノハ電球中ニ破レナイモノガアッタ事デアル。電球(ガラス)ノミデナク、電燈ノ笠ヤ電球中ノタングステン線ガ少シモイタンデ居ナイモノスラアッタ。東京等デ電燈ガユレテ天井ニブツカリ破レタモノガ多イトキクガ自分ノ家デハソレホドニ電燈ハ振動シナカッタノデアラウ。之ハ些細ナ事デアルガ之レカラ地震ノ振動ノ有様ヤ地震ガ起ッテカラ家ノ崩レル迄ノ時間ノ如何ニ短カッタカガ推測セラレル事ト思フ。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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