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第0194話 「例の会」と大正教養主義

大正教養主義

 ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber, 1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身の哲学者・音楽家。夏目漱石も講義を受けており、後年に随筆『ケーベル先生』を著している。
 1893(明治26)年6月に日本へ渡り、同年から1914(大正3)年まで21年間帝國大學に在職し、イマヌエル・カントなどのドイツ哲学を中心に、哲学史、ギリシア哲学など西洋古典学も教えた。美学・美術史も、ケーベルが初めて講義を行った。また、東京音樂學校(現東京藝術大学)ではピアノも教えていた。
 ケーベルとその弟子たちは一般的には、大正教養主義をもたらしたと考えられている。しかし、大正教養主義という『主義』がこの時期に運動として起こったのではない。これは後年、唐木順三によって名づけられたものである(『近代日本思想史の基礎知識』)。

例の会

 ケーベルの弟子たちで、夏目漱石に私淑していた若者のうち、鵠沼に関わりのあるのは次のメンバーである。
  • 阿部次郎(1883-1959) 1914-1915、髙瀨邸離れに居住。1914(大正3)年に発表した『三太郎の日記』は大正昭和期の青春のバイブルとして有名。和辻哲郎夫妻と親交を結ぶが、後に照夫人に横恋慕して和辻と絶交した。
  • 和辻哲郎(1889-1960) 1912年、髙瀨邸離れに滞在し、帝大卒論を書き、髙瀨家長女=照と結婚。1915-1918、髙瀨邸離れに居住。髙瀨邸が川袋に移って以後もしばしば照夫人の実家である髙瀨邸を訪れている。
  • 安倍能成(1883-1966) 1916-1918、髙瀨邸離れに居住。後に鵠沼海岸1丁目に別荘を構える。
  • 小宮豊隆(1884-1966) 独文学者、文芸評論家、演劇評論家。しばしば「例の会」に出席。
  • 森田草平(1881-1949) 作家・翻訳家。しばしば「例の会」に出席。
 鵠沼中藤ヶ谷髙瀨三郎邸の離れに阿部次郎、和辻哲郎、安倍能成が次々に移り住み、親交を結んだ。
 彼らは定期的に「例の会」と称する牛鍋を囲む会を在京の友人を招いて催した(下記一覧の赤字は、開催期日が明確に判明しているもののみで、実際はもっと頻繁に開かれたと思われる)。こうした談論の中から1917(大正6)年5月1日、岩波書店から創刊されたのが思想雑誌『思潮』である。同誌は、主幹・阿部次郎。同人は石原謙、和辻哲郎、小宮豊隆、安倍能成。岩波茂雄が夏目漱石門下の評論家や哲学者を擁して創刊。ケーベルも寄稿している。
 彼らの許には一高文藝部出身の谷崎潤一郎・芥川龍之介らが訪れたり、当時、鵠沼を舞台に活動していた「白樺派」や「草土社」の若者たちとの交流も見られた。
 しかし、髙瀨三郎の死去により、髙瀨彌一は中藤ヶ谷髙瀨邸を売り払い、新たに川袋の土地を求めて不動産業を行うことになったため、安倍、和辻らも鵠沼を去ることになった。


鵠沼における大正教養派の活動
    
西暦 和暦 記                        事
1914 大正 3 4 30 哲学者・小説家=阿部次郎(1883-1959)、単身で鵠沼中藤ヶ谷髙瀨邸の離れに住む
1914 大正 3 5 27 阿部次郎、髙瀨邸の離れから一旦帰京
1914 大正 3 6 17 阿部次郎、髙瀨邸の離れに戻る。以来断続的に滞在を繰り返す
1915 大正 4 3 22 阿部次郎、髙瀨邸の離れに再び住む
1915 大正 4 5   阿部次郎、髙瀨邸の離れを去る
1915 大正 4 9   哲学者=和辻哲郎・照夫妻、照の実家の髙瀨邸の離れに移住
1915 大正 4 9   阿部次郎、単身で和辻哲郎宅に滞在
1916 大正 5 3 20 ~21、阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問
1916 大正 5 3   教育者・哲学者=安倍能成(1883-1966)、髙瀨邸の離れに居住
1916 大正 5 4 1 髙瀨彌一、藤嶺中學校教諭に着任
1916 大正 5 5 2 ~5/20、阿部次郎、和辻哲郎宅に滞在
1916 大正 5 5 20 独文学者=小宮豊隆(1884-1966)、和辻哲郎・安倍能成宅を訪問→阿部次郎と帰京
1916 大正 5 6   小説家=中 勘助(1885-1965)、安倍能成を訪れ、髙瀨家離れに1月程滞在
1916 大正 5 7 26 阿部次郎、箱根で岩波茂雄と面会の帰途和辻哲郎宅に立ち寄り1泊
1916 大正 5 8 14 ~15、阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問。安倍能成宅で夕食をとり、小宮豊隆らと交流
1916 大正 5 12 20 実業家=髙瀨三郎、胃癌のため鵠沼中藤ヶ谷7200にて没。享年57
1916 大正 5     歌人=茅野雅子(1880-1946)、安倍能成を訪う
1917 大正 6 1 10 ~17、阿部次郎、和辻哲郎宅に7日間滞在
1917 大正 6 1 22 ~23、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・森田草平・和辻哲郎が集う
1917 大正 6 3 14 髙瀨彌一、阿川つると結婚・入籍
1917 大正 6 3   髙瀨彌一、清浄光寺(遊行寺)直檀墓地に髙瀨家墓所を建てる
1917 大正 6 4 21 ~22、和辻哲郎宅で「例の会」。阿部次郎ら数人で雑誌『思潮』同人結成について協議
1917 大正 6 5 1 岩波書店より思想誌『思潮』創刊
1917 大正 6 5 31 谷崎潤一郎・芥川龍之介、和辻哲郎宅を訪問
1917 大正 6 7 1 ~2、阿部次郎、和辻哲郎宅に1泊。翌日安倍能成宅に寄り岩波茂雄と交流
1917 大正 6 9 1 髙瀨笑子(東洋学者・歌人)、鵠沼中藤ヶ谷にて髙瀨彌一の長女として誕生
1917 大正 6 11 11 ~12、和辻哲郎宅で「例の会」。阿部次郎ら集う
1918 大正 7 1 26 ~27、安倍能成宅で「例の会」。阿部次郎・小宮豊隆・和辻哲郎が集い、翌日横浜三渓園へ
1918 大正 7 3 28 阿部次郎、和辻哲郎宅を訪問
1918 大正 7 3   安倍能成、鵠沼中藤ヶ谷7200から転出
1918 大正 7 4 9 中藤ヶ谷7200-34、髙瀨名義の山林、9.414反、山口寅之輔(東京四谷区愛住町44)名義となる
1918 大正 7 6 7 和辻哲郎・照夫妻、中藤ヶ谷髙瀨邸内より東京へ転居。阿部次郎も和辻哲郎宅を去る
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 『近代日本思想史の基礎知識』有斐閣
  • 伊藤 聖:「高瀬彌一と大正教養派」『鵠沼』89号(2004)
 
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