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馬込文士村の住人の中には鵠沼ゆかりの人物がかなり見られる。その代表例が和辻哲郎である。 鵠沼御殿第0152話で紹介した髙瀨三郎は、江之島電氣鐵道の藤ヶ谷停車場東側の「百両山」と呼ばれる砂丘一帯、鵠沼村中藤ヶ谷7200番地の2万坪余という広大な山林を入手した。そしてそこに見上げるような冠木門を潜ってたどり着く「鵠沼御殿」と噂される豪邸を構えた。広大な敷地内には、少なくとも4戸の離れが点在していた。髙瀨家には長男、髙瀨彌一とその下に照・千代・喜美・松・芳という5人の妹がいた。 髙瀨彌一は、神奈川縣中學校から第一高等學校英法科・文科を経て帝國大學文科大學に進学。本郷に下宿していた(後にその下宿の娘=阿川つると結婚する)。同じ下宿に先輩の和辻哲郎がいた。 「卒論を書くのに、下宿では落ち着いて書けない」とこぼす和辻に「鵠沼のうちの離れは静かだから、そこで書いたら」と彌一は声を懸けた。 和辻哲郎の卒業論文執筆の場かくして1911( 明治44)年11月から翌1912年3月まで、帝大生=和辻哲郎(1889-1960)は、卒業論文執筆のために中藤ヶ谷の高瀬邸に滞在することになる。滞在中は、食事は母屋で髙瀨家の家族と食卓を囲み(髙瀨家では和洋中の各料理人を雇っていたという)、清掃などの環境整備には長女=照を中心とする妹たちが、かいがいしく働いたらしい。 次項で述べる予定だが、1911( 明治44)年12月から小説家=谷崎潤一郎が旅館東屋に滞在し、『悪魔』を執筆していた。谷崎は、東屋から和辻哲郎宛に来訪を慫慂する手紙を使者に持参させたりしている。二人は当然面会したであろうが、その記録は残念ながら見当たらない。この二人の文化勲章受章者の関係については、下の写真から想像されたい。 なお、新渡戸校長と和辻哲郎の間にいる杉 敏介文藝部顧問も、後に鵠沼に住むので、別項を立てたい。 1912( 明治45)年3月、ようやく卒業論文も完成し、いよいよ鵠沼を去る日の朝、和辻哲郎は髙瀨 照を呼んで座らせ、深々と頭を下げて、「私と結婚してください」と頼んだ。照はそれを承諾する。 1912年6月27日、和辻哲郎と髙瀨 照は京都平安神宮で結婚式を挙げ、東京市大森区馬込に新居を構える。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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