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大正の鵠沼海岸と左翼思想家このところ、この文化欄で採り上げる人物には社会主義、共産主義、アナキストといった左翼思想家、社会活動家が多い。野呂榮太郎、島田清次郎、江口 渙とその話題の中で出てきた中浜鉄と古田大二郎などである。この傾向は震災後や昭和に入ってからも続くのであるが、大正ほど目立たない。 大正時代の鵠沼海岸は、ようやく海浜別荘地としての形態が整ってきた時代であり、その土地を所有し、別荘を構えていたのは左翼思想家にとって「敵」であるはずの華族や財閥の大物といった人々である。 それに、このころの鵠沼はまだまだ田舎で、島田清次郎が「鵠沼は淋しい海辺松風と、波の音ばかり訪ふ人もなし。」と詠んだような場所だったし、岸田劉生の風景画に見るように畑も多く、別荘の多くは「茅屋愛すべし」といった風情だった。外灯も舗装道路もなく、夜歩くときには上を眺めて松の枝の隙間から見える星空で道路の位置を判断したという話が残っている。 そんなところに左翼思想家が集まったのは、一つには保養地だったことが挙げられる。彼らの多くが結核に冒されていた。野呂榮太郎は代表例である。もう一つはシーズンオフには貸別荘が安く借りられたからだという。 常住したわけではないが、滞在した左翼思想家の大物を一人挙げばなるまい。 大杉 榮ここでは大杉 榮の人物像について紹介するつもりは全くない。この人に関する書物はさまざまな立場から多くの書物が出版されている。しかし、そのほとんどには大杉が鵠沼に滞在したことには言及していない。1921(大正10)年の秋と翌年の10月と11月に東屋にかなり長期滞在し、執筆活動をしたり、友人を呼んで遊んだり、吉屋信子や佐藤春夫といった文人と交流したりしている。1922(大正11)年10月には、伊藤野枝との間に生まれた長女=魔子を伴っている。 この間、常時警察の監視下にあったのだが、このことを彼は百も承知で、よく警察をからかったという。外出するときには人力車を利用し、俥屋にはチップをはずんだ。尾行の警官の俥には当然チップがなかったので、俥屋は警察よりも大杉を乗せたがったという。 鵠沼を離れた大杉は、ヨーロッパに渡って活動する。帰国して間もなく関東大震災が起こり、そのドサクサの中で、甘粕事件により野枝と共に軍部に殺害された。 余談かも知れないが、戦後鵠沼に住んで活躍した彫刻家の菅沼五郎(いずれ文化人百選で採り上げるつもり)の幸子夫人は大杉 榮と伊藤野枝の次女で、生後半年で大杉の妹の養女となったエマである。 |
大杉 榮 鵠沼関係年譜 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1921 | 大正10 | 9 | 中 | 思想家=大杉 榮(1885-1923)、東屋に滞在して『自叙伝』を書き始める。吉屋信子と面会 |
1921 | 大正10 | 10 | 宇野浩二、東屋に10日余り滞在。『文学の三十年』に大杉と面会したと書く | |
1921 | 大正10 | 11 | 5 | 大杉 榮、東屋に滞在中の佐藤春夫を訪問 |
1922 | 大正11 | 10 | 21 | 大杉 榮、魔子と一緒に鵠沼へ |
1922 | 大正11 | 10 | 30 | ~11.3、大杉 榮、東屋に投宿。31日は朝飯がすんだら鎌倉行き |
1922 | 大正11 | 10 | 末 | 江口 渙の借家を預かっていた古田大次郎を大杉 榮・村木源次郎らが訪問 |
1922 | 大正11 | 11 | 6 | 大杉 榮、一週間ばかり鵠沼滞在 |
1923 | 大正12 | 9 | 16 | 甘粕事件により伊藤野枝らとともに殺害される |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献]
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