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第0214話 鵠沼文化人百選 その015 野呂榮太郞

プロフィール

  野呂榮太郎(のろ えいたろう 1900(明治33)年4月30日-1934(昭和9)年2月19日)はマルクス経済学者
 小学生のとき結核性関節炎で片足切断。北海中学から慶応義塾大学へ進み、理財科在学中、野坂参三の主宰する産業労働調査所に関係する。1926年(大正15)卒業論文として「日本資本主義発達史」を執筆。同年学連事件に連座し、保釈後産業労働調査所の常任となり、日本近代史研究の基礎を築く諸論文を発表した。1930(昭和5)年1月共産党に入党、翌年羽仁五郎らと「日本資本主義発達史講座」を企画。1932年10月の熱海事件以後地下活動に入り、宮本顕治らと党指導部の再建に当たり、1933年5月以降は党中央の責任者となったが、同年11月特高に逮捕され、警察の拷問の末病状悪化、品川病院で翌年2月病死した。

鵠沼とのゆかり

 最初は1920(大正9)年12月、東仲通りの助産婦=島田いし宅(鵠沼松が岡3-6-12)に短期間滞在、1927(昭和2)年春からは1932年秋までの5年半、同所に滞在、島田いし・愛子母娘の看護と近隣で開業していた富士山(たかし)医師(鵠沼を語る会会員)の治療の許、結核の療養と執筆に専念した。執筆原稿は鵠沼に住む林 達夫の手で『思想』に掲載された。戦後関係者により『鵠沼時代の野呂榮太郎』が編まれ、30・40・50・70周忌に偲ぶ会が鵠沼で開かれた。

野呂榮太郎 鵠沼関係年表
    
西暦 和暦 記                        事
1920 大正 9 12   経済学者=野呂榮太郎(1900-1934)、東仲通島田いし宅に滞在
1927 昭和 2   野呂榮太郎、東仲通島田いし宅に居住
1930 昭和 5 7 21 歴史家=羽仁五郎(1901- 1983)、島田いし宅に野呂榮太郎を見舞う
1932 昭和 7 10   野呂榮太郎、東仲通島田いし宅を去る
1933 昭和 8 11 28 野呂榮太郎、特高に逮捕される
1934 昭和 9 2 19 野呂榮太郎、拷問の末、品川病院で没
1951 昭和26     逸見重雄/千鶴子夫妻、松本陽松園第6号を購入し「韜光舎」と名付けて居住
1963 昭和38 8 26 野呂さんの想い出を語る集い、島田家で開催。出席者:6名
1964 昭和39 2 19 野呂榮太郎三十周忌、鵠沼公民館で開催
1964 昭和39 4 24 野呂榮太郎没後30周年講演と映画の夕、鵠沼公民館で開催。『日本の夜明』:宮川寅雄
1964 昭和39 5   「文化評論 」No31に安江惇・逸見重雄企画による、島田親娘及び親戚たちと座談会記録掲載
1974 昭和49 12 12 野呂榮太郎40周年記念集会、藤沢市民会館で開催
1977 昭和52 3   鈴木安蔵:「学連事件―精神史回想―」『現代と思想』第3号に逸見と野呂の関係を解説
1977 昭和52 10 16 逸見重雄、鵠沼松が岡4-3-1にて没
1979 昭和54 1   羽仁節子:『妻のこころ』岩波新書刊行、鵠沼時代の野呂と羽仁五郎について記述
1984 昭和59 1 10 鵠沼を語る会、1月例会(研究発表)野呂榮太郎さんを語る:逸見千鶴子
1984 昭和59 1 11 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』18号刊行(野呂榮太郎さんを語る(一):逸見千鶴子)
1984 昭和59 3 13 鵠沼を語る会、3月例会(研究発表)野呂榮太郎さんを語る2:逸見千鶴子
1984 昭和59 3 13 鵠沼を語る会、会誌『鵠沼』19号刊行(野呂榮太郎さんを語る(二):逸見千鶴子)
1985 昭和60 3   「鵠沼時代の野呂榮太郎」刊行委員会、『鵠沼時代の野呂榮太郎』(アテネ書店)を刊行
1996 平成8     逸見千鶴子、歌集『薔薇深紅添い遂げ得しと』刊行
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 鵠沼を語る会:『鵠沼ゆかりの文化人』(2007)
  • 逸見千鶴子:「野呂榮太郎さんを語る(一)」『鵠沼』第18号(1984)
  • 逸見千鶴子:「野呂榮太郎さんを語る(二)」『鵠沼』第19号(1985)
 
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