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プロフィール島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899(明治32)年2月26日-1930(昭和5)年4月29日)は、小説家石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれ。 野町小学校から石川県立金沢第二中学校に進学。停学処分を数回受け、東京の明治学院普通部に転入したが金沢第二中学校に復学、更に金沢商業本科に転校する。1918年夏から書き始めた自伝的小説『地上』を新潮社から出版。これが実質的なデビュー作となり、実売部数50万部とも言われ、江馬修の「受難者」、賀川豊彦の「死線を越えて」と並ぶ大正期の代表的なベストセラーとなる。 『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを思いこんでいたところに世間からの高い評価を受けて、傲慢な振る舞いをすることが多くなった。印税が多く入るようになって生活も豪奢となった上に奔放な女性関係も文壇関係者から嫌われる原因となり、次第に文壇では孤立していった。それでも長江や徳富蘇峰など、島田の才能を高く評価する向きも少なくなかった。 1922年に出版社の薦めで船でアメリカやヨーロッパを周る旅に出発。アメリカではクーリッジ大統領とも面会、国際ペンクラブ初の日本人会員となった。帰国後に『地上』第5部として、長編小説『改元』を出版。海外視察後の高揚・膨張した覇気のもと、世界革命・宗教改革を標榜する一方で、周囲の無理解や嘲笑に苦しみ焦燥し、益々傲慢な振る舞いが狂的なまでにエスカレートし、生田ら数少ない文壇での支持者もこの頃には離れていった。 海軍少将の娘を誘いだした事件が大きくマスコミに取り上げられ、理想主義を掲げた時代の寵児が女性スキャンダルで汚れ、一気に凋落することとなった。そのため島田の作品は全く売れなくなり、出版社からも出入りを禁じられる。1924年7月末夜半、巣鴨の路上で警察官に職務質問され、暴言を吐き、巣鴨署に拘引。精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容された。収容中に結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年4月29日に肺結核で死去。享年31。 鵠沼とのゆかり売れっ子作家時代の1920(大正9)年秋から、中屋の離れに滞在。『地上』第3部を推敲。翌年1月16日に鵠沼内で居を移し、一年余居住したようだが、詳細は不明。何人かの文士仲間と交流したが、不遜な態度で誰彼構わず激論したことしか記録されていない。鵠沼で撮った籐椅子に座る写真が遺されている(左)。 鵠沼で次の歌を詠んだ。 今日もまた、波の音に明け波の音に、暮れてゆくのか鵠沼の海。 鵠沼は淋しい海辺松風と、波の音ばかり訪ふ人もなし。 ※和歌に句読点をつけるのは島田の癖だったらしい。 |
島田清次郎 鵠沼関係年表 |
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西暦 | 和暦 | 月 | 日 | 記 事 |
1920 | 大正 9 | 9 | 1 | ~1921/1、小説家=島田清次郎(1899-1930)、中屋の離れに滞在。『地上』第3部を推敲 |
1921 | 大正10 | 1 | 16 | 島田清次郎(1899-1930)、鵠沼に転居する |
1921 | 大正10 | 2 | 26 | 中村武羅夫宅を訪問、久米正雄・佐佐木茂策と共に東屋で会食 |
1921 | 大正10 | 2 | 小説家=中戸川吉二(1896-1942)、鵠沼で島田清次郎と会い、激論する | |
1922 | 大正11 | 出版社の薦めで船でアメリカやヨーロッパを周る旅に出発。それまでに鵠沼を去ったか |
E-Mail: |
鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
[参考文献] |
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