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第0004話 鵠沼の範囲は?

 昨今、藤沢市当局が東海道線以北の鵠沼神明と鵠沼を鵠沼地区から外し、藤沢地区に含めることを目論んでいるという噂を耳にした。
 これが事実ならば、地域の伝統や文化を無視した文字通りの「ご都合主義」として、声を大にして異論を唱えたい。

 藤沢市13地区の中でも鵠沼は最も人口が多く、50,000人を遙かに超す。その人口統計では既に東海道本線以北は除かれている。行政の最も基本的な統計の面で、鵠沼地区の新旧を単純に比較することはできないのである。例えば小中学生が社会科の調査などで鵠沼地区の人口変化を調べなさいという課題が出された場合、ある年から鵠沼の人口が急に減ることに驚かされることになる。その原因を探っていくと、鵠沼地区の統計範囲が一部切り捨てられていることに気づかされる。これを修正してつじつまの合う統計グラフを作ろうとすると、住居表示毎の統計を探して計算し直さなければならなくなるのだ。
 これは人口のみならずあらゆる統計にも当てはまる問題である。人口や面積ならば丁目毎の細かい数値が公開されているから、根気さえあれば計算し直すことも可能だが、それ以外の統計の場合はお手上げといえよう。

伝統的な大字としての鵠沼
 鵠沼郷の呼称は平安時代末期にあらわれるが、境川(当時の呼称は固瀬川)以西、引地川以東で、南辺は海岸線、北辺は江戸時代に整備される旧引地橋東詰にあった旧東海道鍵の手部分のショートカット北側が藤沢地区になった。これにより旧鵠沼1番地は鵠沼地区から外された。

  • 1870年の鵠沼村戸口資料によると鵠沼村の各戸に1番から267番の戸別番号がつけられていた。実際の戸数は285戸が記録されている。
  • 1873年5月1日に神奈川県は区・番組制施行、鵠沼村は第17大区第2小区となる。この際に28の小字に分けられ、引地橋東詰を1番地とし、南東に向かって7000番台までの番地の制定が行われた。
  • 1908年4月1日に「藤沢大坂町」・「鵠沼村」・「明治村」が合併して「高座郡藤沢町」が誕生する。この時に旧鵠沼村はそのまま大字鵠沼となった。
  • 1947年4月1日に「鎌倉郡片瀬町」が藤沢市に合併した。
  • 1964年から数度にわたって鵠沼地区の住居表示が制定されたが、その際大字鵠沼であったところは「鵠沼○○」あるいは「○鵠沼」というように、必ず鵠沼の文字がつけられた。この住居表示制定の際、いくつかの調整が行われた。
  •  1930年代に行われた引地川下流の河川改修により、直線化された引地川以西の部分は北部は辻堂太平台となり、南部は鵠沼海岸四丁目となった。
  •  片瀬地区のうち、江ノ島電鉄以西の字桜小路は鵠沼藤が谷四丁目に含まれることになった。境川と江ノ島電鉄の間の字大源太は、地域住民の希望により片瀬地区に残った。
  •  藤沢駅南口から神奈川県道32号藤沢鎌倉線以南の地域は、道467号を境に東側が鵠沼東、西側が鵠沼石上一丁目となった。
  • 行政区分としての鵠沼藤沢市は市域を13地区に分けて行政を進めており、鵠沼地区もそのひとつである。

都市計画上の地域区分としての鵠沼地区

 藤沢市は1999年2月に「藤沢市都市マスタープラン」を発表し、それに沿った都市計画が進められている。このマスタープランにおける鵠沼地区には藤沢地区の南藤沢を含めている。

統計処理上の鵠沼地区

 現在藤沢市が公開している最も新しい統計資料は、2005年10月1日の国勢調査速報値であり、それによれば鵠沼地区の人口は52,318人(13地区で最高)、面積は5.55km2、人口密度は9,427人/km2(13地区で最高)となっている。ただし、この数字は鵠沼神明を除き、藤沢地区の南藤沢と片瀬地区の旧字大源太のうち境川以西の地区を含んだ地域のものである。

鵠沼市民センターの管轄範囲

 鵠沼地区では公民館は1958年に市内で2番目に開設されたが、市民センターは2003年、市内で11番目に公民館に併設された。鵠沼市民センターの管轄する自治会・町内会の範囲や民生委員・児童委員の分担地域からは鵠沼神明北部は外れており、南藤沢が含まれている。

公立小中学校の学区

小学校
 学制発布より早く、1872年7月12日には鵠沼学舎(→藤沢市立鵠沼小学校)が開校し、鵠沼村全域を学区とした。南東部の開発による人口増加により、1946年8月10日、藤沢市立鵠洋国民学校(→藤沢市立鵠洋小学校)が開校し、本鵠沼駅付近から南を学区とした。さらに1970年4月1日、藤沢市立鵠南小学校が開校し、鵠洋小学校学区から分かれて鵠沼海岸全域を学区とした。この鵠沼・鵠洋・鵠南の3校が鵠沼地区を3分する形だが、鵠沼神明の東半は藤沢市立本町小学校、鵠沼石上の東部と鵠沼東は藤沢市立新林小学校、藤沢駅南口周辺は藤沢市立大道小学校の学区になっている。
中学校
 1933年11月14日、鵠沼北端部に藤沢町内の高等科を統合する藤沢高等小学校(→藤高国民学校)が開校し、これが1947年の新学制により「藤沢市立第一中学校となった。同時に新たに藤沢市立鵠沼中学校が開校し、東海道本線を境に学区を分けた。1956年4月1日、辻堂東海岸に藤沢市立湘洋中学校が開校し、鵠沼松が岡全域と鵠沼海岸の大部分が鵠沼中学校の学区から分割された。この第一・鵠沼・湘洋の3校が鵠沼地区を3分する形だが、鵠沼石上の東部と鵠沼東は藤沢市立村岡中学校の学区になっている。

E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

 この文章を読んで、「これはWikipediaの鵠沼の丸写しではないか。」と気づかれた方がおられるかも知れない。実は、Wikipediaのこの部分は、私が書き込んだ部分なのである。今後もこの千一話の中にWikipediaと同文が現れるかも知れない。「鵠沼」「鵠沼海岸」「湘南海岸公園」「神奈川県道片瀬大磯線」「片瀬西浜・鵠沼海水浴場」「 湘南海岸・砂浜のみち 」などの大部分は私が書いたものだからである。
 
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