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封戸租交易帳鵠沼を含む藤沢市付近が最初に文字として現れるのは、735(天平 7)年閏11月10日に相模国司が「相模国封戸租交易帳」を作成し中央政府に報告たものだという。この文書は、現在正倉院に収められている。ここに鵠沼付近を表すとされる土甘(トカミ)郷50戸が見られる。原文は次のようなものらしい。 〔東大寺正倉院文書〕 〈十九〉 相模國封戸租交易帳 相模國司 解申天平七年封戸租事 合八郡、食封壹拾參處、壹阡參伯戸、田肆仟壹伯陸拾貳町貳段貳伯玖歩、不輸租田壹仟貳伯肆拾肆町參段壹伯陸拾壹歩、見輸租田貳仟玖伯壹拾漆町玖段肆拾捌歩、租肆萬參仟漆伯陸拾捌束漆把、〈◯中略〉 皇后宮食封壹伯戸、田參伯參拾玖町肆段參伯肆拾漆歩、不輸租田壹伯貳拾肆町伍段貳伯伍拾壹歩、見輸租田貳伯壹拾肆町玖段玖拾陸歩、租參仟貳伯貳拾參束玖把、 足下郡垂水郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾貳町參段貳伯肆拾歩、不輸租田肆拾肆町玖段貳拾肆歩、見輸租田壹伯貳拾漆町肆段貳伯壹拾陸歩、租壹仟玖伯壹拾壹束玖把、 餘綾郡、中村郷(○○○)伍拾戸、田壹伯陸拾漆町壹段壹伯漆歩、不輸租田漆拾玖町陸段貳伯貳拾漆歩、見輸租田捌拾漆町肆段貳伯肆拾歩、租壹仟參伯拾貳束、〈◯中略〉 一品舍人親王食封參伯戸、田捌伯肆拾玖町貳段貳伯肆拾陸歩、不輸租田貳伯捌拾壹町漆段壹伯伍拾歩、見輸租田伍伯陸拾漆町伍段玖拾陸歩、租捌仟伯壹拾貳束玖把、 足上郡岡本郷(○○○)伍拾戸、田壹伯貳拾參町貳伯參拾陸歩、不輸租田壹拾捌町肆段壹伯肆拾歩、見輸租田壹伯肆町陸段玖拾陸歩、租壹仟伍伯陸拾玖束肆把、 足下郡高田郷(○○○)伍拾戸、田壹伯陸拾漆町參段貳伯伍拾玖歩、不輸租田肆拾參町壹段壹伯參拾玖歩、見輸租田壹伯貳拾肆町貳段壹伯貳拾歩、租壹仟捌伯陸拾參束伍把、 餘綾郡〈◯郡下、恐脱二餘綾郷三字一〉壹伯伍拾戸、田參伯捌拾漆町玖段壹伯肆拾歩、不輸租田壹伯漆拾捌町玖段壹伯肆拾歩、見輸租田貳伯玖町、租參仟壹佰參拾〈◯此間有二缺文一〉 尺度郷(○○○)〈◯鎌倉郡〉伍拾戸、田貳伯貳拾伍町捌段貳拾漆歩、不輸租田伍拾漆町貳段貳伯陸拾漆歩、見輸租田壹伯陸拾捌町伍段壹伯貳拾歩、租貳仟伍伯貳拾捌束、 荏草郷(○○○)伍拾戸、田壹伯肆拾玖町肆段貳伯參拾陸歩、不輸租田肆拾壹町壹段參伯伍拾陸歩、見輸租田壹伯捌町貳段貳伯肆拾歩、租壹仟陸伯貳拾肆束、右大臣從二位藤原朝臣食封、大住郡仲島郷(○○○)伍拾戸、田貳伯壹拾陸町漆段參伯肆拾貳歩、不輸租田貳拾漆町肆段貳伯貳拾貳歩、〈◯中略〉 從三位山形女王食封、御浦郡走水郷(○○○)伍拾戸、田壹伯壹拾捌町肆段漆拾陸歩、不輸租田貳拾漆町貳段參伯壹拾陸歩、見輸租田玖拾壹町壹段壹伯貳拾歩、租壹仟參伯陸拾漆束、〈納官六百八十三束五把、給主六百八十三束五把、〉 從三位鈴鹿王食封、高座郡土甘郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾捌町陸段參伯伍拾參歩、不輸租田壹伯壹拾町肆段陸拾伍歩、見輸租田陸〈◯此間有二缺文一〉 從四位下檜前女王食封、御浦郡冰蛭郷(○○○)肆拾戸、田壹伯玖町漆段壹伯伍拾參歩、不輸租田參拾陸町貳段參拾參歩、見輸租田漆拾參町伍段壹伯貳拾歩、租壹仟壹伯參束、〈納官五百五十一束五把、給主五百五十一束五把、〉 從四位下三島王食封、大住郡埼取郷(○○○)伍拾戸、田壹伯漆拾捌町貳段參伯捌歩、不輸租田肆拾捌町漆段玖拾貳歩、見輸租田壹伯貳拾玖町伍段貳伯壹拾陸歩、租壹仟玖伯肆拾參束肆把、〈納官九百七十一束七把、給主九百七十一束七把、〉 從四位下高田王食封、鎌倉郡鎌倉郷(○○○)參拾戸田壹伯參拾伍町壹伯玖歩、不輸租田貳拾玖町捌段壹伯玖歩、見輸租田壹伯伍町貳段、租壹仟伍伯漆拾捌束、〈納官七百八十九束、給主七百八十九束、◯中略〉 天平七年潤十一月十日〈◯署名略〉 食封(じきふ)とは、律令制において、親王・貴族・寺院などに俸禄として封戸(ふこ)を支給したこと。特定の戸を封戸として指定し、そこからの租の半分と庸調のすべて、および仕丁の労役を徴収する。位階による位封、官職による職封、勲功による功封などがある。 郷(ごう)とは、律令制において、地方行政における社会組織の単位をいい、基本的には50戸をもって1郷とした。 不輸租田(ふゆそでん)とは、律令制において、租税を免除された田。 見輸租田(けんゆそでん)とは、通常「輸租田」といい、律令制において、口分田などと同じく田租が賦課される田。 租(そ)とは、庸(年間20日の労役の義務)、調(絹2丈と綿3両を収めること)と並ぶ律令制の税の一。口分田・位田・賜田・功田などの面積に対して課税され、収穫量の約3パーセントの割合で、稲で納めさせた。 納官(のうかん)とは、国家に納める分の租 給主(きゅうしゅ)とは、年料給分を有した院宮王臣家の人々に納める分の租 從三位鈴鹿王これによると、高座郡土甘郷は從三位鈴鹿王の食封だったことが判る。從三位鈴鹿王(すずかのおおきみ)とは、奈良時代の皇族で、天武天皇皇子の高市皇子の次男。729(天平元)年に勃発した長屋王の変により無念の思いを抱いて死んだ長屋王の弟に当たる。710(和銅3)年、無位から従四位下に、神亀3年(726年)従四位上に叙せられる。 長屋王の変により兄長屋王は自殺するが、鈴鹿王は連座を免れその後も昇進を続け、同年正四位上に叙せられ、731(天平3)年8月11日には参議に任ぜられた。732(天平4)年従三位。737(天平9)年藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の相次ぐ死去を受け、知太政官事に任ぜられ、大納言橘諸兄と共に政権を運営した。738(天平10)年正三位、743(天平15)年従二位に昇叙、744(天平16)年には藤原仲麻呂と共に恭仁宮留守官に任命されるが、翌年に薨去した。『続日本紀』によると佐紀(現在の奈良市北西部、奈良丘陵の南西斜面)にあった鈴鹿王邸に、770(宝亀元)年称徳天皇の御陵が造営されたという。 封戸租交易帳を読み解くこれを読み解き、一覧表にしてみた。
土甘郷高座郡土甘郷は後半の部分が欠落している。見輸租田が欠けているが、他の郷の例を見ると、田の値から不輸租田の値を引いたものだから、計算してみると68町2段288歩ということになる。従って、不輸租田と見輸租田の比率は他郷に比べると、著しく見劣りがする。不輸租田の割合が異常に高いのである。租の計算式は収穫量の約3パーセントの割合ということだが、他の郷の例を見ると、簡単に計算できそうもないので類推することはあきらめた。いずれにせよ、土甘郷は決して豊かな郷ではなさそうである。 さて、土甘の読みだが、「つちあま」という説もあるけれど、多くは「とかみ」「とかめ」「とがみ」と読むとしている。「とがみ」ならば、鎌倉時代に出てくる「砥上ヶ原」につながる。 |
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭 |
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[参考文献]
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