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それらのうち、今回は道祖神、庚申塔、馬頭観音以外の各種供養塔について述べてみよう。 二十三夜塔二十三夜とは、いわゆる「月待ち行事」の一つで、「講」を組織した人々が集まって、月を信仰の対象として精進・勤行し、飲食を共にしながら月の出を待つ、月待ちの行事をした。その際供養のしるしとして建てた石碑(月待塔)のひとつが、二十三夜塔である。崇拝の対象として十三夜は虚空蔵菩薩、十五夜は大日如来、十七夜から二十二夜までは、観音を本尊とし、二十三夜は勢至菩薩を本尊として祀った。 勢至菩薩は、智慧の光をもっており、あらゆるものを照し、すべての苦しみを離れ、衆生に限りない力を得させる菩薩といわれている。月は勢至菩薩の化身であると信じられていたことから、二十三夜講が最も一般的で全国に広まった。 鵠沼でも幕末頃から流行したらしく、北部に天保年間の碑が2基残っている。戦前には各町内に「二十三夜講」があり、一種の村民のレクリエーションの場になっていたというが、碑は建てられなかったらしい。原町内では戦後まで続いていたと聞く。 相模国準四国八十八箇所供養塔法照寺境内にある。また、浜道大師堂前にも弘法大師堂供養塔(札所標石)があるが、これらについては別項を立てて詳説する予定である。六十六部供養塔全国の社寺霊場を仏道修行のために巡礼する人のことを「六十六部」、略して「六部]という。これは、日本全国66カ国を巡礼し、1国1箇所の霊場に法華経を1部ずつ納める宗教者である。鵠沼ではその供養碑が万福寺裏に2基の庚申塔と並んで建っている。 題目塔題目とは「南無妙法蓮華経」の日蓮宗のいわゆる髭題目のことである。鵠沼の寺院は、浄土真宗2か寺、真言宗1か寺、浄土宗3か寺であり、隣町の藤沢に総本山がある時宗、片瀬に多い日蓮宗の寺院はない。. 藤沢市教育委員会の調査では、石上通りの路傍に1831(天保 2)年の題目塔があったことになっている。表には「遺失」と記入したが、実はまだ見つけていないのである。 出羽三山供養塔と四国三十三所供養塔(光明真言供養塔)徳冨蘆花が明治20年代の鵠沼を描いた作品『思出の記』に次の件がある。「夕日弱つて蝉の音猶残る村に入つて五六丁、路は二筋に岐れて、羽黒山云々と鐫つた供養塔が立つて居る。」 これは、いわゆる「原の辻」の風景だろう。ここには出羽三山供養塔と四国三十三所供養塔の他に庚申塔の小祠もある。脇に植えられていた樹木が巨大化し、はびこった根のために石塔群が傾いだので、2005(平成17)年1月19日、町内の有志によって樹木を伐採し、敷地や石塔群を整備して「原の辻石碑整備賛助者」碑が建てられた。 江戸時代の鵠沼村では、伊勢神宮参拝や高野山登山が盛んだったことは第0073話で紹介したが、さらに遠く、東北の出羽三山や四国にまででかけた人々もあったのである。 精霊供養塔国道134号線の龍宮橋入口交差点角にある。これについては別項を立てて詳説する予定である。北辰妙見星碑いわゆる「供養塔」ではないが、鵠沼で最も不可解な碑である。場所は鵠沼海岸2-12の国分轄拍タ寮駐車場北端で、大小の碑が公道を背にして重なるように設置されている。 そもそもここにあったのかどうかも不明である。.ここは江戸時代には鉄炮場だったし、道路があったのかさえ不明である。明治になってからは鵠沼海岸別荘地の最南部となり、最初の購入者は蜂須賀茂韶、すなわち徳島藩主蜂須賀斉裕の次男で、1868(明治元)年徳島藩主を継承し、新政府の議定として刑法事務局輔や民部官知事に就任。翌年版籍奉還にともない徳島藩知事となった人物である。以後、二人の所有者を経て、現在の所有者は缶詰で知られる総合食品メーカー国分鰍フ代表取締役会長兼社長國分勘兵衛氏である。おそらく鵠沼最大の3000坪といわれる敷地の一角を社員寮とし、その駐車場にこの碑がある。 大きい方の碑の中央には、かなり癖のある太い字で「北辰妙見星」と彫られており、上部に山形の上に丸が彫られている。これは星か太陽を表すのだろうか(太陽ならばダイヤモンド富士ではないか)。 右上に「日」、左上に「月」の文字が小さく彫られており、右側には「三十霊明神」、左側には「七曜九曜廿八宿富士大行名山」と彫られている。 北辰妙見星とは北極星のことだ。古代中国では、あらゆる星が北極星を中心に巡ることから、全宇宙を司る星として、北辰と呼ばれ、神として崇拝されるようになり、天帝の化現した姿だと信じられていた。「辰」とは、龍神のことで、北辰は、道教の中心的な神である太一神(たいいっしん)と同一視され、また、陰陽道(おんみょうどう)で宇宙生成、森羅万象を司る神として位置づけられる泰山府君(たいざんふくん)とも同一神であると見なされることもあるそうだ。これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。 妙見信仰が日本に渡来したのは4世紀〜5世紀といわれ、江の島でも修行したと伝えられる役小角(えんのおづぬ)によって広められた。中世には、坂東武者にこの信仰が広まった。 左に彫られた文字のうち、「七曜九曜」と「廿八宿」は仏教系の宿曜経から出た言葉だが、「富士大行名山]は、どうやら富士信仰から来ている。 というわけで、この碑は実に複雑なハイブリッドな信仰の碑だということになる。 碑のどこにもこの碑の建立年代は彫られていない。富士信仰の要素があるから、江戸時代以降ということになろう。 ところで、非常に特徴的なこの碑の文字について、富士信仰の研究をしている仲間から、小田原駅北方の大稲荷神社境内に似た碑があると教えられ、出掛けて撮影したのが右の写真である。 似ているどころか、同一人物の筆跡に違いない。こちらにも建立年代は彫られていない。 市内の伊勢山でも1997(平成9)年、南斜面の地中より藤沢市教育委員会の発掘調査により、安山岩に「北辰妙見大霊府神・嘉永七年七月」と記されている碑がみつかったと聞いた。現在は伊勢山公園の北に移されたというが、まだ確認していない。
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