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新編相模國風土記稿新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)は江戸時代に編纂された相模国の地誌。大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂した。1841(天保12)年成立、全126巻。大量の古文書や古記録を元にし、相模国に所属する郡・村の沿革・地誌を網羅した。 相模国の郡・村史を研究する上で『皇国地誌』とならぶ重要な文献である。 鵠沼村に関する記録は、巻之六十 村里部 高座郡巻之二 に掲載されている。その全文を『大日本地誌大系』によって下に引用した。但し、大日本地誌大系では、「市施孫之進」とあるが、これは「布施孫之進」の明確な誤りであるので、改めた。 「興田」は「奥田」かも知れないが、そのままにしておいた。 もちろん原文は縦書きである。文中、( )で括ってある部分は、原文ではやや小さい文字で二行分かち書きになっている直前の語の解説部分である。極力原文の文字(旧漢字)を使ったが、パソコンの文字表にないものについては、パソコンの限界内での変換にとどめている。次の2字である。
『新編相模國風土記稿』巻之六十 村里部 高座郡巻之二○鵠沼村(久々比奴末牟良) 江戸より行程十二里許、戸數二百五十八、廣二十二町袤二十八町(西、辻堂・羽鳥二村、北藤澤宿、大庭村、南は海に至る、東、鎌倉郡片瀨村、境川を隔つ、)小田原北條氏の頃は岩本太郎左衛門知行す、(【役帳】に岩本太郎左衛門、七十三貫七百六十七文、東郡鵠沼と戴す、)今御料の地は延寶六年八月成瀨五左衛門檢地す、外に新田三所あり、其一は享保十七年墾闢し、日野小左衛門改め、其二所は寶曆七年の開闘にして志村多宮檢地す、其余は布施孫之進が釆地にして延寶七年十一月祖先孫兵衛檢地し(其後開墾の地あり、元文元年以來新田知行となる、)村内空乘寺領九石交れり(空乘寺傳に、大橋重政采地の内を割て、寺領を寄附すと云ふ、【重修譜】に據るに、重政が父長左衛門重保、元和三年三月召出され、後相模國高座郡にして、采地五百石を賜ふと見ゆ、此地其頃は重保が知る所なり、)東海道村の北境を通ず(幅四間)村民農隙には魚獵を專とす(船役永錢を納む、)此邊松露初茸を産せり、海岸に炮術場あり、享保年中御用地になりしと云ふ、○高札場 ○小名 △車田 △引地 △石上 △興田 △堀北 △堀南 ○境川 東境を流れて海に入る(幅十二間) ○引地川 西界を流れて海に沃ぐ、東海道の係れる處に土橋を架す、引地橋と呼ぶ(公より修理あり、進退は當村・羽鳥・大庭の三村なり、) ○神明宮 村民持 下同じ、○石神社 ○秋葉社 ○空乘寺 金堀山と號す(門前の字を金堀塚と唱ふ、故に名づく、)淨土眞宗高田派(勢州一身田專修寺末、)本尊阿彌陀を安ず、永祿年中僧了受創建す、七世慶心の時、地頭大橋長左衛門重政(重政は式部卿法印龍慶が子なり、龍慶始長左衛門重保と穪す、)宮に請て釆地の内九石餘を寄附し、慶安二年八月御朱印を賜る、境内に重政の碑あり(碑面龍性院殿釋道樹居士、寛文十二年壬子年閏六月晦日と刻す、)子孫新五左衛門重好、同小兵衛重尚等建る所なり、今重政自畫賛の一軸を藏す、重政は當時右筆の職にありて、善書の聞えあり、○萬福寺 清光山と號す、淨土眞宗(京東六條本願寺末)寛元三年僧源海創建す(俗姓は安藤駿河守隆光、武州荒木住人なり、親鸞直弟と成り、寺務五年の後直弟誓海に譲り、荒木萬福寺にて寂す、歳八十九、)本尊は阿彌陀外に聖德太子十六歳自作の像あり(宗祖より源海に附属する所と云ふ、)中興を良意(享保三年寂)と云ふ、○法照寺 善光山天龍院と號す、淨土宗(京知恩院末)本尊阿彌陀(惠心作)を置く、開山は直為(享保二年寂す)と云ふ、△觀音堂 十一面觀音なり(聖德太子作) ○普門寺 密嚴山遍照院と號す、古義眞言宗(藤澤宿感應院末、)本尊は不動、中興は善龍(延寶四年二月廿日寂す、)と云ふ、境内に大師の石像を置く、△鐘樓 寛政三年鑄造の鐘を掛く、○教寶院 高福山と號す、本山修驗(小田原玉瀧坊配下)本尊毘沙門(長一寸八分の銅像を腹籠とす、是傳教の作と云ふ、)を置く、享保年中僧祐賢建つ、○觀音堂 十一面觀音を置く、普門寺持、
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