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新道開通記念碑小田急線本鵠沼駅西口の前には、ちょっとした駅前広場があり、以前はここから辻堂駅行きのバスが発着していた。広場に面する商店街の裏側には、歩道はないが普通車が悠々とすれ違える、この附近では珍しい道幅の道路になっている。ここはかつて、戦後暫く迄は農業用水路が流れていて、両側の細道と共にそれを1964(昭和39)年頃までに埋め立てて、暗渠化したものである。この用水路は第0092話で紹介した後期新田開発の際に、皇大神宮裏手の池から新田まで引水したもので、第0092話の地図に水色の破線で示してある。この広い道は本鵠沼1号踏切から西に進んだ突き当たり、宮崎ランドリーの前から北東に向かい、約400mほどで終わる。そこは一応十字路になっているが、広い道の先は普通車がようやく通れるほどの狭い道が左に弧状にカーブして大東の辻に至る。この十字路の北東角、すなわち本鵠沼1-16-18地先に粘板岩円頭扁平型の、高さ188cmの石碑が建っている。題額には「新道開通記念/昭和二年五月竣成」と二段に刻まれ、碑面には「一本松踏切ヨリ南三百二十間六丁目ヨリ右旧道百間擴張工事寄附連名」とあり、「金貳千圓 藤澤町補助」に続いて新道拡幅のために土地を寄贈した地主16名の名が、提供坪数と共に連記してある。碑陰には「金貳百圓 發起者一同」と1行あるのみである。 この石碑の所在位置から、「新道開通記念」の新道とは、上記の農業用水路を埋め立てた広い道のように見えるが、そうではない。別のところにあったものを農業用水路を埋め立てた後に移したものであろう。 碑にある新道とは、碑面に彫られているように「一本松踏切ヨリ南三百二十間六丁目ヨリ右旧道百間擴張工事」によって完成したものである。この道路は碑の建つ位置から東に20m行った交差点でぶつかる道のことである。 すなわち現在は小田急線がJRと立体交差する位置にある一本松踏切から南西方向に向かう道で、碑の建つ位置から東に20m行った交差点の先で左折してクランク状になり、本鵠沼駅の駅前広場に出る道である。 第0259話で紹介した大正十年測図二万五千分の一地形図『江ノ島』『藤澤』図幅にはこの道はなく、畑や針葉樹林になっている。あったとしても畑の畦道程度であっただろう。そこの地主16名が発起人となり、土地を出し合って自動車の通れるような新道を敷設したのだろう。 地元ではこの道を「大東道」と呼び慣わしてきたが、現在ではタクシー運転手でもそれを知る人はまれである。 この道が完成した1927(昭和2)年といえば、「円タク」が走り始めた年で、小田急江ノ島線開通を2年後に控えていた。これらの理由がこの道敷設の理由だろう。 ついでに紹介すると、この碑が現在建っている交差点で交差する道路は、県道30号大東交差点から来る道で、かつては碑のある交差点の先は、現在宅地になってしまったが、直進して鵠沼中学校地の南端を通っていた。この道はかなり古くからあったと考えられ、第0116話で紹介した参謀本部陸軍部測量局、二万分一迅速圖「藤澤驛」にも描かれている。鵠沼中学校地の南端付近は長い直線区間になっており、それを利用して地引き網の綱を縒ったことから「綱縒り場」と呼ばれていたという。 | ||||||
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