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第0274話 芥川『蜃気楼』

蜃気楼 ――或は「続海のほとり」――

 『蜃気楼 ――或は「続海のほとり」――』は芥川龍之介鵠沼時代に書かれた小説で、「婦人公論」1927(昭和2)年2月号に掲載された。
 そのきっかけは高木和男氏が「発見」し、横濱高等工業學校の加藤述之教授が説明書を書き、《橫濱貿易新報》と《朝日新聞》が記事にして、「蜃気楼ブーム」が起こったことによる経緯は第0267話に述べておいた。
 青空文庫などで読むことができるし、「朗読の旅」で朗読をパソコンで聴くこともできる(あまり上手ではないが)。
 話の内容は一部と二部に分かれ、一部は東京から訪ねてきたK君と、近隣に住んでいたO君を誘って、三人で当時鵠沼の海岸で評判になっていた蜃気楼を見物に出掛けた時の話、二部はK君が帰った後、夕食後に妻とO君を連れて海岸に散歩に出掛けた話である。
 O君とは東屋の貸別荘イ-2号に住んでいた小穴隆一である。K君のモデルには諸説がある。1926(大正15)年に芥川龍之介を訪問した記録があるKの頭文字を持つ人物には川端康成(1899-1972)、菊池 寛(1888-1948)、蒲原春夫(1900-1960)、神崎 清(1904-1979)、葛巻義敏(1918-1985)がおり、このうち当時大学生だったのは神崎 清ということになる。当時大学生では、他に堀 辰雄(1904-1953)が来訪しているが、Kの頭文字を持つ人物ではない。

 私がこの作品の中でちょっと興味を惹かれるのがK君が浜辺のカップルを指して発する「新時代」なる語である。この作品が発表されたのは昭和に入ってからだったが、龍之介らが蜃気楼を見に行ったのも、この稿が脱稿したのも大正時代だったであろうから、「新時代」は大正から昭和に替わったことではなかろう。おそらく大正末期の流行語と思われる。「大正ロマン」とか「大正デモクラシー」の語は今日まで伝わっているが、官主導の明治への反発から民主導の大正の世相が生まれたことは、政治から文化・風俗まであらゆる分野に拡大していた。世界的に見ても第一次大戦、ロシア革命、電気・内燃機関・無機化学など近代科学の生活への影響などが大きく影響した。まさに「新時代」だった。
 一方、鵠沼海岸に蜃気楼が見られることを高木和男氏が気付いたのは、大正関東地震による地盤隆起が鵠沼の砂浜を拡大させたことがきっかけだったかも知れない。高木氏が写真撮影に成功してから、加藤教授や新聞記者も撮影することができるまではかなり時間が経っており、さらに龍之介らが蜃気楼見物するのは後になる。それでも「砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。」程度には見えていたのだから大したものだ。
 3.11東日本大震災1周年まであと20日ほどになった。この震災は日本人の生き方、考え方に大きな影響を与えたといわれる。「新時代」なのかも知れない。関東大震災もおそらく同様な影響を与えたであろう。
 「新時代」なる語がどのような事情から生まれたのか。もう少し知りたい。

 この作品について、『鵠沼』第69号の特集「芥川龍之介と鵠沼海岸」は、次のようにまとめている。
 この作品は「筋のない小説」の見事な実例といわれる。さりげなくちりばめている様々な素材が、短い作品の中でうまく作用している。平凡な事象や風景を描きながら、そのうちふと奇異や驚異を感じとっている。
 それは、当時の龍之介の異常な神経のためであるけれども、読者に一種の実感をともなわせ独特の雰囲気を感じさせている。
 名作との評価が高い。龍之介自身もこの作品に自信を持っていたことが彼の書簡集から知ることができる。
  • 1927(昭和2)年2月12日.小穴隆一宛 『婦人公論のはしみじみ書いた。大兄や女房も登場させている。』
  • 1927(昭和2)年2月27日.佐々木茂策宛 『婦人公論へ書いた十枚ぱかりの小品、或は一読に堪ふるならん。』
  • 1927(昭和2)年2月27日.滝井孝作宛 『「蜃気楼」は一番自信をもっている。』
  • 1927(昭和2)年3月28日.斉藤茂吉宛『唯婦人公論の「蜃気楼」だけは多少の自信之有候』
 なお、この作品は鵠沼と特にかかわりが深い。ゆかりの言葉・地名が多い。
東屋、引地川、鵠沼海岸、江の島、松林、松風、砂浜、砂止め・・・・。

海のほとり

 『蜃気楼』には ――或は「続海のほとり」――という副題がついている。正篇の『海のほとり』は1925(大正14)年8月7日に脱稿した作品で、『中央公論』9月号に発表され、『芥川龍之介全集』には収められており、青空文庫などで読むことができる。
 話の内容は友人M君と東京から離れた海辺の旅館に滞在し、雑誌に掲載する創作をしているときの話で、半町ほど先の海水浴場へ時折出掛けた様子が描かれている。.
  『蜃気楼』には鵠沼という地名が明記されているが、『海のほとり』には地名の明記はない。
 コウボウムギの生えた砂浜で、ながらみ取りの漁師と出会ったりするから、鵠沼である可能性が高いし、旅館は《東屋》だろう。龍之介は妻=文の実家の別荘が現在の鵠沼海岸三丁目があったので、若い頃からしばしば鵠沼を訪れ、ことに1916(大正5)年から1922(大正11)年の間には《東屋》に滞在中の谷崎潤一郎を足繁く訪問したりしている。《東屋》は廃業の際に宿帳を処分したので、滞在の記録は滞在者の作品や書簡から類推するしかない。この作業に熱心に取り組んだのが小山文雄氏で、結果は著作『個性きらめく 藤沢近代の文士たち(正・続)』に収められ、神奈川県近代文学館の『神奈川文学年表』に整理されている。これらを見ても、その他の芥川龍之介年譜を調べても、 1925(大正14)年の夏に龍之介が《東屋》に滞在したという記録は見当たらない。これはそのような事実はなかったということではなく、物的証拠がないということであろう。
 蛇足だが、ながらみとは小型の扁平な巻き貝で、和名ダンベイキサゴの関東南部の地方名である。砂浜海岸の浅い海底に棲息し、鵠沼の名産品であった。また、貝殻を着色し、網袋に入れたものは江の島の土産品店でおはじきとして売っていた。 
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)
  • 特集「芥川龍之介と鵠沼海岸」『鵠沼』第69号(1994)
 
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