今回は鵠沼から江の島への話題を。
髙瀨彌一、江之島水道株式会社を創立
髙瀨笑子ミネソタ大学名誉教授は、その著『鵠沼断想』の中で「江之島に水が出た時の父のうれしそうな顔は今でも忘れられない。」と書いておられる。
時は1926(大正15)年12月14日、すなわち大正天皇崩御の10日前である。
江の島は、地質構造上極めて水が得にくい。その上、人口集中地は明治以降の埋立地である。定住人口は少ないが、旅館街になっていたため、外来人口は多い。そういうわけで、恒常的に水不足に悩まされてきた。また水質も悪かった。島民は天秤棒を担いで桟橋を渡ったり、小舟を漕いだりして対岸の片瀬から水を運んでいた。この様子に心動かされた髙瀨彌一は、資本金125,000円を以て《江之島水道株式会社》を創設し、自宅の敷地に井戸を掘り、旧江之島道に鉄管を埋設して、江の島に飲料水を供給する事業に着手した。
すなわち、当初は江の島への給水が主目的で、途中の片瀬地区にも分配しようとする程度だったが、次第に事業を拡大した。井戸も自邸のものでは間に合わなくなり、江ノ電の東側、石上地区に新たに内径2尺鉄筋コンクリート集水管延長61間を地下15尺以下の個所に埋設した。1928(昭和3)年2月には《玉川水道株式会社》系と提携して新たに《湘南水道株式会社》とし、翌々年には村岡村奥田の伏流水を水源に、鎌倉町への給水を計画。内務省に許可申請する。
水道事業は水道条例の規定では市町村営が原則とされており、企業が工場などに供給する場合などを除き、せいぜい個人的な引水が普通だった。弥一が経営した《江之島水道㈱》→《湘南水道㈱》などはかなり例外的なものである。そこへ、これまた例外的に神奈川県が県営水道の開発を試みた。県営水道の嚆矢とされる。この計画は既存の横浜・川崎・横須賀の市営水道以外の水道未供給地に水道を敷設しようというもので、最初に大磯町から葉山町にかけての相模湾岸の市町村が企画された。その中間地帯に弥一の《湘南水道㈱》が挟まれるわけで、県は買収に乗り出した。当初は渋っていた弥一だが、ついに折れた。もちろん、買収だから幾ばくかの一時金は入ったが、将来に向けての収入源は絶たれた。
1930(昭和5)年発行の『大藤澤町復興市街圖』には川袋髙瀨邸のところに「江之島水道水源地」と記入されている。 |