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第0268話 小林理髪店

マリンロード最古の建物

 マリンロードの東方、仲通りとの交差点東側一帯は別荘地開発期以来大鋸出身の鳶職有田金八の所有地だったという。有田金八は南側に1914(大正3)年、先ず《明月庵》という蕎麦屋を開き、1920(大正9)年に向かいの葦原だったところに精肉・食品・西洋料理の《有田商店》を出店、《明月庵》は青果店《有田》としたことは、第0204話に記した。
 青果店《有田》は後に縁戚の矢折氏に譲られ、居抜きで《八百利》となった。現在は《八百利》青果店は閉店し、《八百利ビル》となって、1階にサーフショップ《SURF & SUNS》が入っている。
 この《八百利ビル》の東側に、見るからにレトロな平屋の理容店が営業している。《理容やながわ》である。現在のマリンロードでは恐らく最古の建物であろう。ここは建てたときから今まで有田家の所有であり、貸店舗となっている。
 この建物については、鵠沼を語る会の会誌『鵠沼』第84号に岡田哲明氏が「芥川龍之介の小説「歯車」に登場する小林理髪店(現柳川理容店)」と題して報告しておられる。
 その中で岡田氏は建設時期について「有田金八が明月庵を経営し始めた大正2年以降、大正12、3年までの10年余の間であることは間違いない。」と記し、続けて「高木和男氏の記憶では大正12年の震災前には無かったとのこと」との説を紹介しておられる。また、その先の「建築的考察」の中で「構造体も末口は角材であっても先のほうは丸太に近い十分な断面を持っていない部材が使われ、桁の継ぎ手も追掛継手の省略型である。母屋部材の寸法も統一されていない。これは震災倒壊家屋の発生材を再利用した可能性もある」とも記しておられる。私が聞いた説は、震災倒壊家屋の廃材を集めて建てられ、1926(大正15)年10月に小林理髪店が開業したというものである。
 当主は小林政吉といい、現在も旧東海道沿いの引地橋の近く(藤沢市鵠沼神明4-12-18)で営業する《小林理容店》の鵠沼海岸支店としてスタートした。本店は明治時代に群馬県出身の小林太三郎・ヒロ夫妻が開業したのが始まりである。二代目の政吉は、横浜開港当初から外国船に出入りして西洋理髪術を手にし、《かみそりの定》で知られた山下町の松本定吉のもとで修行し、1925(大正14)年、定吉が《松本美容学校》を開くと、その教壇に立ったというから、新進気鋭の理髪師だったに違いない。
 この《小林理髪店》の東に細い路地が続いている。突き当たりは東屋旅館だった。この路地の東側に東屋創始者伊東將行夫人ぬいの手で、震災後に数軒のトタン葺きの貸別荘が建てられた。1926(大正15)年7月20日、その「イ−4号」借りたのが芥川龍之介であり、程なく友人の小穴隆一が「イ−2号」を借りた。
 両者とも開店早々《小林理髪店》の利用客になったであろうことは想像に難くない。
 ことに芥川龍之介は作品『歯車』の冒頭部分に「自動車には丁度僕の外に或理髪店の主人も乗り合わせていた。彼は棗のようにまるまると肥った、短い顎髯の持ち主だった。僕は時間を気にしながら、時々彼と話をした。」と書いている。
 久松伯爵、広田弘毅元首相や福田医院の院長、一木與十郎藤沢町長など上客にも恵まれ、小田急開通による発展もあって店は繁盛した。政吉・志ん夫妻は八人の子宝に恵まれ、長男、次男を理髪師に育てあげ、事業はこれからという矢先、政吉は病に倒れ1937(昭和12)年、46歳にて他界した。
 その後も暫く続いたが、長男、次男を相次いで徴兵され、志ん夫人は支店を閉じざるを得なかった。1940(昭和15)年10月、柳川喜作が居抜きでそのあとに入り、《理容やながわ》を開業して今日に至っている。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)
  • 岡田哲明:「芥川龍之介の小説「歯車」に登場する小林理髪店(現柳川理容店)」『鵠沼』第84号(2002)
 
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