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そこで、故高木和男氏が『鵠沼』第9号に記された文を引用して紹介に換えたい。 生蕎麦《明月庵》「今の有田商店のところは、大正八年の頃は芦が生えていたところで、今の八百利のところに有田商店が明月庵とか言ってそば屋をやっていた。有田は藤沢大鋸の出身と聞いたが、当時からの鵠沼コンツェルンで土地のブローカーを今の当主の曾祖父がやっており、しかも仕事師もやっておった。祖父の人が身体が丈夫でなかったので、曾祖父の跡をついで、土地ブローカーをやり同時にそば屋をやっていたが、弟が仕事師をやっていた。今のタバコ屋のお婆さんはその仕事師の妻君であるが不幸にも主人は若い頃に亡くなられた。 このそば屋の明月庵は、大正九年には道路向こうの芦原を開いて店を作って、そば屋をやめ肉屋をはじめた。同時に洋食の職人を入れて、洋食の食堂を作り、出前もやった。岸田劉生の鵠沼日記に出てくる洋食屋であって、私も食べたが味はよかった。缶詰などを始めたのは当主の父親の代からである。 明月庵の跡は今の八百利になって、今の当主の祖父が始めた。今の郵便局の処は空地だったと思う。」 ※最後の行の「今の八百利」は1Fにサーフショップ「SURF & SUNS」が入っている「八百利ビル」の位置である。 また、「今の郵便局の処」というのは、『鵠沼』第9号が刊行された1980年当時の鵠沼海岸2-7-3である。 清酒食料品牛豚鶏肉西洋料理+青果+煙草《有田》明月庵の向かいの現在地に移った《有田》は、下の右写真の看板に見られるように、「清酒食料品牛豚鶏肉西洋料理」と多角的な商店を構えるが、右側に別棟で煙草店を開き、さらに向かいの《明月庵》跡には青果店《有田》を、恐らく大震災までは開いていた。岸田劉生の日記にはしばしば《有田》が登場するが、カレーライスやコールドビーフを食べたのは、現在の《有田商店》であり、画材の野菜や果物を購入したのは青果店の方である。店構えは格別大きなものではないが、敷地はかなり広く、邸内には土蔵や屋敷稲荷が鎮座する。さすがに90年の歴史を誇る老舗である。
清酒食料品精肉《距L田商店》これが現在のような営業形態になったのは、1928(昭和3)年になってからで、大震災の復興が一段落し、小田急線の開通を翌年に控えた段階である。すなわち西洋料理部門が消えたわけだが、向かいの青果店《有田》も恐らく居抜きの形で創業者夫人の妹の嫁ぎ先矢折氏に譲られて、洒落のような屋号の《八百利》となった。その左側(ここはまだ有田氏の土地)を借りて引地の《小林理髪店》が進出するのは、1926(大正15)年のことである。ちょうどその頃、その奥の東屋貸別荘「イの4号」に住むことになった芥川龍之介も、早速此の理髪店の客になったのであろう。芥川晩年の作品『歯車』の冒頭に出てくる「或理髪店の主人」のモデルとされるわけである。後に居抜きで《理容やながわ》となった。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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