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第0267話 蜃気楼ブーム

高木和男氏、鵠沼海岸で蜃気楼発見

 《鵠沼を語る会》元会長の故高木和男氏は、1926(大正15)年3月、縣立湘南中學を一期生として卒業すると、横濱高等工業學校(横浜国立大学工学部の前身)應用化學科に進学した。
 1926(大正15)年10月2日午後、高木氏はかねてから気になっていた海岸の砂浜に置いてある漁船が浮き上がって見える現象を撮影し、翌日その写真を物理学の加藤述之教授に見せた。教授はそれに興味を示し、説明を加えると共に鵠沼海岸に足を運び、10月21日には自らも写真撮影に成功した。
 加藤教授が新聞記者にそれを話したため、1926(大正15)年10 月27日の横濱貿易新報に「鵠沼の砂濱に珍らしや しん氣樓の出現 發見者は高工學生高木和男君 きのふ記者も實地に見學」の見出しで報道され、翌10月28日には東京朝日新聞神奈川版にも大きく報道された。
 これが評判を呼び、鵠沼海岸には連日大勢の見物客が訪れた。当時小説家=芥川龍之介は、旅館「東屋」の北側にあった同館の貸別荘「イの四号」に住んでいたが、訪れた大学生と、近所に住んでいた友人の画家=小穴隆一とともに蜃気楼見物に出かけた。その模様を小説化したのが芥川最晩年の名作『蜃気楼 ――或は「続海のほとり」――』である。

蜃気楼とは

 蜃気楼(しんきろう)は、密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象。大気の密度は大気の温度によって粗密を生じるが、低空から上空へ温度が上がる場合、下がる場合、そして水平方向で温度が変わる場合の3パターンがある。鵠沼海岸で高木氏が報告したのは最も一般的に目にする機会の多い「下位蜃気楼」。アスファルトや砂地などの熱い地面や海面に接した空気が熱せられ、下方の空気の密度が低くなった場合に、物体の下方に蜃気楼が出現する。 ビルや島などが浮いて見える浮島現象や逃げ水現象もこのタイプに属する。
 私自身も鎌倉高校に通学し、七里ガ浜高校に8年間勤務したから、その間に数回浮島現象は目撃している。
 また、2001年夏、ラトヴィアのエルマラ海岸で、雨上がりにバルト海の浮島現象をビデオ撮影し、帰国後高木和男氏にお見せしたことがある。
 本格的な上位蜃気楼も、パキスタンの沙漠で目撃した。この時は大揺れのバスの中からだったので、うまく撮影はできなかったのだが。

蜃気楼(高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)抜萃)

 私は大正十五年(一九二六)に横浜高工に入学して、その一学年で加藤教授に物理を習っていたが、かねて砂漠に見える蜃気楼ではないかと思っていた、海岸の砂浜に見られる現象について、加藤教授に話したところ、教授は非常に興味をもって何回も観測に来たし、また朝日の神奈川版の記者に話したので、これが朝日の神奈川版に載ってしまって、鵠沼海岸の浜はゾロゾロと大変な賑いになった。
 しかし蜃気楼というと、人びとほ何か幻想的なものを感じるらしい。しかし地表に水が見えて影が写っても、浮島現象が見えても、これは砂漠に現出するものと変りないものである。砂漠のものを蜃気楼というなら鵠沼海岸のものも蜃気楼にちがいないのだが、余りに幻想を伴うため、また舗装道路などにもよく出るため、最近は地水現象とよんでいるようだ。昔の武蔵野の逃水と同様の現象であり、地表、または海水の温度が空気の温度よりかなり高いときに見える現象である。富山湾に見えるものは反対に、海水の温度が低く、空気の温度が高いときに現れる。
 加藤徳右衛門の藤沢郷土誌はよくしらべられた書であるが、この八十六ページに載せられている鵠沼海岸の蜃気楼の記事は、恐らく加藤さんの想像で書かれたものであろう。大宮殿や大森林などは現出するはずもないのである。不正確な記事は後世にも誤解を発生する。

説明書(橫濱高等工業學校教授 理学士:加藤述之校閲)

(一) 晴れた風のない日に、太陽が砂濱を照らすと、砂が熱せられるから、それに接した空氣は暖められて膨張し稀薄となる。空氣の屈折率は稀薄になる程小さいものであるから、一番熱せられた下層が最小で、だんだん上層に行くに従つて大きくなつて行く、かういふ砂濱に立つて遠方の物体、例へば船を見ると、それから來る光線は曲つた道を通つて私達の眼に達する、其中下層を通るものは曲り方甚しく比較的上層を通るものは少ない、そこで私達は正逆二つの像を認めるのである。
        (大正十五年十月二日午後一時撮影)[写真略]
(ニ) 浮島、海面の温度が空氣の温度より高い時は、海水に接してゐる空氣は暖められて密度は小さくなる、上層に至るに従って増加する、かういふ空氣の層を通して遠方の島や、船、岬などを見ると、   それから來る光は曲つた道を通つて私達の眼に達するので、立像と倒像と同時に認められ、圖のようになるのである。
        (大正十五年十月二十一日午後一時撮影)[写真略]
 発見者 横濱高等工業學校 應用化学一年 高木和男
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 高木和男:『鵠沼海岸百年の歴史』(1981)
 
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