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第0246話 久米正雄と東屋

久米正雄

  鎌倉ペンクラブ初代会長として「鎌倉文士」の代表格とされる久米正雄(1891-1952)が実際に鎌倉に居住したのは震災後の1925(大正14)年からだが、震災前から東屋を気に入り、よく利用していたようだ。
 第0215話でも紹介したように、1921(大正10)年2月26日に島田清次郎、中村武羅夫、佐佐木茂策と共に東屋で会食している。同年10月に東屋に10日余り滞在した宇野浩二が『文学の三十年』に里見・久米・芥川・佐佐木・大杉と面会したと書いており、また、翌年2月にも久米が東屋に滞在した記録が残っている。
 震災後、長谷川欽一によって東屋が再建、開業すると、早速滞在して作品を執筆している。

馬 海松(マ・ヘソン)と『鵠沼行』

 この時の久米の作品は『文藝春秋』に掲載されたもののようで、当時文藝春秋社で働いていた馬 海松が原稿を取りに東屋を訪れている。この時の模様を馬が『文藝春秋』1925(大正14)年1月号に『鵠沼行』という題の文で発表しているというが、まだ原文に接していない。機会があれば調べてみたい。
 馬 海松(1905-1966)は朝鮮半島出身の童話作家で、1921(大正10)年に日大芸術科に入学した。.学生時代から菊池寛に気に入られ、菊池によって文藝春秋社が興されると同時に入社した。久米の原稿取りは馬の初仕事だったのかも知れない。
 終戦直前に朝鮮半島に帰還し、成立した大韓民国を代表する童話作家として活動した。
 蛇足だが、2002~3年猪瀬直樹が『文学界』に連載した小説『こころの王国 菊池寛と文藝春秋の誕生』に菊池と馬の関係が描かれており、この作品は2008年に『丘を超えて』と題して映画化された。

久米正雄とテニス

 再建された東屋には2面の硬式テニスコートが設けられたが、久米正雄は常連プレイヤーとなり、写真も残っている。第0150話で紹介した長谷川欽一 氏の文中に「大正13年には、その当時としては数少ない硬球のテニスコートを二面、敷地の一角に造り、鎌倉(海浜)ホテルのコートと両方使っての「鎌倉トーナメント」を開催、数多くのテニスの名士が出場され、私もその一員としてプレーした思い出…」とあるのは、案外久米が発起人かも知れない。
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 小山文雄:『個性きらめく』(1990)/『続個性きらめく』(2002)
  • 高三啓輔:『鵠沼・東屋旅館物語』(1997)
  • 長谷川欽一:「私の鵠沼」『鵠沼』第55号(1990)
 
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