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第0167話 硯友社旅行会

硯友社とは

 第0140話および第0146話で紹介したように、1908(明治41)年5月23日、文学結社=硯友社(けんゆうしゃ)一行は、東屋へ「旅行会」を行っている。このことが東屋を「文士宿」として知らしめたきっかけであるとする説が見られるが、長谷川ゑいが初代女将となって間もない1897(明治30)年秋に、硯友社同人の広津柳浪(1861-1928)が東屋に滞在し、小説『くされ縁』を執筆したことが契機ではないかと思う。
 いずれにせよ、硯友社が東屋を愛用したのは、同人の一人川上眉山が片瀬に居を構えていたことの影響が強かったといえよう。先述のように東屋の宿帳は残っていないので、記録は限られている。
 東屋に来る前の長谷川 榮(ゑい)は、神楽坂箪笥町の名料亭=《吉熊》の女中頭をしており、才色兼備で人気があったという。硯友社の面々はこの《吉熊》をしばしば利用していた。
 硯友社とは、明治期の文学結社である。1885(明治18)年2月、帝國大學預備門(後の旧制第一高等學校)の学生だった尾崎紅葉、山田美妙、石橋思案、丸山九華が文学同好会「文友会」「凸々会」をつくった。これが発展し、永遠に友でいるという意味で硯友社と称したという。同年5月、日本初の純文芸雑誌である『我楽多文庫』を創刊している。
 本部は東京の九段にあった。現在は、和洋九段女子中学校・高等学校が建ち、校内の100周年記念資料室に、硯友社に関する資料が保存してあるという。

 1908(明治41)年5月23日の硯友社旅行会は「思案、眉山、桂舟、龜石、小波、程山、風谷、柳浪といふ顔觸で、翌日、水蔭と眉山は片瀬の旧居沙地浪宅跡を訪れ、帰京の途次神奈川で別れる。これが水蔭にとって眉山との永遠の別れとなった。」と『自己中心明治文壇史』にある。この時のメンバーは以下の通りで、尾崎紅葉は参加していない。
  • 石橋思案(1867-1927) 本名、助三郎。横浜弁天町生れ。東京帝國大學中退。尾崎紅葉らとともに硯友社を創設し「我楽多文庫」を発行。「乙女心」「わが恋」「京鹿子」などを発表したが振るわず、後に博文館に入社し、『文芸倶楽部』を編集した。
  • 川上眉山(1869-1908) 大阪生まれ。本名・亮。別号、煙波山人。帝國大學文科大學中退。在学中から創作をし、1890(明治23)年「墨染桜」で注目される。後に代表作となる長編小説「書記官」、随筆「ふところ日記」などを発表し、人気作家としての地位を不動のものとした。この旅行会直後の6月15日に剃刀で喉を切って自殺した。享年40。
  • 武内桂舟(1861-1942) 本名は鋠平(しんぺい)、一説に銀平。紀州藩士武内藤介の次男として東京に生まれる。狩野正信(狩野派始祖の正信とは別人)に絵の技法を習う。さらに松本楓湖、月岡芳年について日本画を学び、年甫と号した。
  • 久我龜石( - ) 硯友社創立メンバーの一人であった小説家。詳細未調査
  • 巖谷小波(1870-1933) 明治、大正期の作家、児童文学者。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみさんじん)。東京麹町生まれ。
  • **程山( - ) 詳細未調査
  • 細川風谷(1867-1919) 講談師。土佐(高知県)出身。本名は源太郎。明治18年渡米し,帰国後硯友社同人となる。日本郵船で外国航路の事務長をつとめたが,のち講談界にはいり,講談新声会をつくった。
  • 広津柳浪(1861-1928) 長崎生まれ。本名直人、別号に蒼々園。硯友社同人となり、「残菊」で認められる。「変目伝」「今戸心中」「黒蜥蜴」などの低階級社会の暗部を描いた悲惨小説(深刻小説)を発表した。小説家の広津和郎は子。広津桃子(鵠沼に住んだ)は孫。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

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