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第0165話 江ノ電発電所

 パナソニックは、神奈川県藤沢市と展開している「Fujisawa サスティナブル・スマートタウン構想」の事業化について、5月26日、説明会を開催した。
 Fujisawaサスティナブル・スマートタウン(Fujisawa SST)とは、辻堂元町のパナソニック工場跡地である19万ha(約6万坪)の土地に建設中のスマートタウン・プロジェクト。世界に先駆けて、太陽光発電システムと家庭用蓄電池を大規模に装備するなど、パナソニック独自の「家まるごと」「施設まるごと」「街まるごと」のソリューションや、新提案によるエネルギー利用の先進モデルを構築を目指している。
 この計画は2010年11月17日に同プロジェクトのコンセプトおよびその実現に向けた基本合意を結び、その後、プロジェクトの具体化に向け検討を進めていたのだが、福島第一原発事故により、一躍脚光を浴びた観がある。
 藤沢に電灯が点いたのはいつ頃だったのだろう。

江之島電氣鐵道発電所

 1886(明治19)年の日本最初の電力会社・東京電燈會社の開業に遅れて、その3年後1889(明治22)年に田沼太右衛門が電灯事業の目論見に先鞭をつけ、井上重保・加藤朔重郎らと共に横浜の財界人10人が創立委員となり、同年7月に資本金30万円をもって、㈲横濱共同電燈會社設立を計画。本社を中区常盤町1-6に定め、創立願書を神奈川県庁に提出した。同年11月4日に「関内及び外国人居留地」を営業範囲として電灯業創立の許可を得た。社長には高島嘉右衛門が就任した。 営業許可に伴い横濱共同電燈會社は、1890(明治23)年2月から中区常盤町1-6に火力発電所の建設を始め、同年9月15日に火力発電所ならびに配電線工事を完了。100キロワットの試験送電で社内の点灯を行った後、同年10月1日から営業を開始した。 当時の発電方法は石炭火力で、エジソン式直流発電機を4基つかった電灯事業だった。 これが神奈川県初の電力供給である。後に、「関外」を営業区域としながら事業に着手していなかった横浜電燈會社の営業権を吸収、全市を営業区域とし、1898(明治31)年には新高島町に新発電所を建設し、社名は横濱電氣株式會社となった。
 1898(明治31)年 大師電氣鐵道(現・京浜急行)が久根崎に火力発電所を設立し、翌1899(明治32)年 大師電氣鐵道の六郷橋-大師間が開通した。関東地方初の電車であり、現存日本最古の電車となる(江ノ電は2番目)。 1901(明治34)年、大師電氣鐵道は京濱電氣鐵道に社名を変更し、 六郷橋-官設大森駅間を開通させると共に、工場や家庭用に電力供給事業を開始している。
 次いで1900(明治33)年、小田原馬車鐵道(国府津―小田原―湯本)が電化し、小田原電氣鐵道株式會社となった。同時に電気供給開始の記録があるが、発電所については詳細は不明である。同社は箱根三枚橋発電所(水力)を建設するが、これは箱根登山鐵道建設期のものである。
 電化により、『鐵道唱歌』の12番の歌詞は「國府津おるれば馬車ありて 酒匂小田原ほど近し」から「國府津おるれば電車あり 酒匂小田原遠からず」に変わった。
 江之島電氣鐵道が敷設されるのに先立って、1901(明治34)年から片瀬の大源太に発電所建設が着工された。常時325KWを発電。225KWを鉄道に、100KWを家庭用に供給するというものであったが、家庭用電力供給の開始は1908(明治41)年2月5日との記録もあり、1909(明治42)年4月に江之島電気鉄道よりの電力供給を受け、鵠沼に電気が通じるという記録もある。いずれにせよ、当初は家庭用は夜間のみの供給だったという。
 1911(明治44)年10月3日、江之島電氣鐵道は横濱電氣㈱と合併、横濱電氣㈱江之島電氣鐵道部となった。これにより、昼間も電力供給が行われるようになったのではあるまいか。
 片瀬大源太の発電所は、関東大震災までは存続した模様である。
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鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考文献]
  • 江ノ島電鉄株式会社:『江ノ電の100年』(2010)
 
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