HOME 政治・軍事 経済・産業 自然・災害 文化・芸術 教育・宗教 社会・開発


第0164話 内藤千代子初舞台

これこそ私の初舞臺!

 第0138話で紹介したように、内藤千代子(1893-1925)は、明治末から大正期の文学界に一大センセーションを巻き起こした女流作家である。
 幼い頃からすでに千代子の突出した才能は周囲を驚かせていた。もの覚えのいい千代子は5才の時から勉強を始めて学齢に達する頃には小学3年の過程を終えてしまい、今更行っても仕方がないと父広蔵が家庭での教育を続けた。以来千代子は、裁縫学校に通ったことはあるものの、普通教育は全く受けていない。
 1901(明治34)年、20世紀のスタートと共に博文館から創刊された女性向け文芸誌《女學世界》は、女学生や若い女性だけでなく、男子の中学・高校生や大学生までにも読者層を拡げたらしい。
 内藤千代子は、1908(明治41)年の《女學世界》8巻10号の短文欄に『心ゆく夕』を応募し、初掲載されている。
 その後も続けて投稿するが、その年の11月号(8巻15号)の懸賞日記文に応募した『田舎住ひの處女日記』を応募し、3等に入選するとともに賞金10円を獲得している。
 この時の経緯を、後に1916(大正5)年に刊行した『生ひ立ちの記』にこう綴っている。

 「する中(うち)その年の秋でした。某誌で十一月の増刊の爲にひろく懸賞の投稿を募集してあつたので、ふつと應じてみる氣になつたのです。まつたく何の考へもなく、無意識のやうに………。かへつて深く考へてみれば、こんな思ひ切つた大膽な事が出來るものではなかつたのですが、母に言へば止められるに定(きま)つてますから、夜々二時間づゝの暇と、それから母の外出中とをねらつて、やうやう半紙十枚ばかりにおぼつかない字でしたゝめ、締切の前日かに投函(だ)しました。
 けど、もうこれで氣がすんでしまたので、まさかこれに望みをかけるほど厚かましくはありませんでしたから、そのまゝ忘れたやうになつてゐたところへ、二十日あまり經つと案外にも三等に當選した通知と、十圓の爲換(かはせ)券とを送られた。
 まあ、まるで夢みた様でぼんやりして了(しま)ひましたわ。何かのまちがひであると、今にも取消のしらせが來やしまいかと氣づかはれて、我が物ながらこのよろこびを、忌憚なく味はふとこは出來ませんでした。そつと、遠巻にして眺めてましたの、ほヽヽヽヽヽ。
 が、やがて「心の日記」と美装して現はれたのは、たしかお納戸の被布を着たマガレツトの女の半身のついた靑いやうな表紙で…………これこそ私の初舞臺!
 活字になつたうれしさはもう前にも味はつたが、今度は評といふものもついてゐて、それには思ひがけもなく、非常に賞められてあつたので、私はもう有頂天になつて了つた。その雜誌を抱いて、もうもううれし泣きに泣いたのです。いつそこのうれしさを身にしめたまゝ山へ入らうか、海の底へでも沈んで了はうか、とさへ思つた。我が世の望みは足りたのですもの、望月のかけたる事もなしとおもへば………。
 これに思ひ上つたなどといふわけではさらさらありませぬが、引きつゞいて一二篇書きました。」

 ここでは題名がなぜか「心の日記」になっているが、《女學世界》8巻15号に掲載されたのは『田舎住ひの處女日記』である。すなわち、この時代に鵠沼に暮らすことは、「田舎住ひ」なのであった。
 それ以後は驚異的な頻度で《女學世界》のみに投稿し、翌年には二等、そして翌々年にはついに一等に入選し、賞金50円を獲得している。このようにして、千代子は彗星のごとく人気作家となっていった。
 以下に嵯峨景子氏の研究成果を参考に、内藤千代子の活動を年譜にまとめた。
内藤千代子年譜    
西暦 和暦 記                        事
1893 明治26 12 9 内藤千代子(1893.12. 9-1925. 3.23)、父広蔵、母いくの長女として東京下谷に生まれる
1896 明治29     内藤千代子の一家、東京下谷から鵠沼の知人の別荘に転居
1897 明治30     内藤千代子の一家、鵠沼の知人の別荘から鵠沼本村の農家(山口紋蔵宅か)の離れに転居
1898 明治31     内藤千代子に妹かめ誕生。父の手で千代子の教育始められる。この後終生学校教育とは無縁
1901 明治34     内藤千代子の一家、鵠沼本村の農家の離れから現鵠沼松が岡3-20-12の新居に転居
1906 明治39 7   内藤千代子の父=広蔵、肺結核にて没
1906 明治39 7 9 内藤千代子の妹かめ、尋常鵠沼小学校に入学
1908 明治41 8 1 『女學世界』8巻10号の短文欄に『心ゆく夕』応募、初掲載
1908 明治41 9 1 『女學世界』8巻11号の短文欄に『避暑地より』応募、甲賞受賞
1908 明治41 10 1 『女學世界』8巻13号の短文欄に『栗にそへて』掲載
1908 明治41 11 1 『女學世界』8巻14号の短文欄に『或る夜』掲載
1908 明治41 11 15 『女學世界』8巻15号の懸賞日記文に『田舎住ひの處女日記』応募、3等入選。賞金10円
1908 明治41 12 1 『女學世界』8巻16号に『霜月日記』を千代子の筆名で掲載
1909 明治42 1 1 『女學世界』9巻1号の短文欄に『祝ひに招かれて』掲載
1909 明治42 1 15 『女學世界』9巻2号定「こゝろの秘密」に『お正月日記』を千代子の筆名で掲載
1909 明治42 5 15 『女學世界』9巻2号に『憧がるゝ少女の手紙』を掲載
1909 明治42 7 1 『女學世界』9巻9号に『鹽加減』を萩香の筆名で掲載
1909 明治42 8 1 『女學世界』9巻10号に『松風』を千代子の筆名で掲載※本文の筆名は萩香
1909 明治42 11 15 『女學世界』9巻15号の定「嫁にゆく人」に『嫁に行かぬ人』応募、2等入選。賞金30円
1909 明治42 12 1 『女學世界』9巻16号に『熱烈なる少女の戀』を掲載
1910 明治43 1 1 『女學世界』10巻1号に『うれしい正月日記』を掲載
1910 明治43 1 15 『女學世界』10巻2号に『思ひ出多き函根の湖畔』応募、1等入選。賞金50円
1910 明治43 4 1 『女學世界』10巻5号に『女の手紙』と金子百合子の筆名で『ス井ートホーム』を掲載
1910 明治43 5 1 『女學世界』10巻6号に『スヰートホーム』を掲載
1910 明治43 5 15 『女學世界』10巻7号に『女の手紙』を掲載
1910 明治43 6 1 『女學世界』10巻8号に『美しき夢見て暮らす女』を掲載※本文タイトルは「おてんば娘」
1910 明治43 7 1 『女學世界』10巻9号に『ハーモニカ』を掲載
1910 明治43 9 1 『女學世界』10巻11号に『天女降臨』を掲載
1910 明治43 9 15 『女學世界』10巻12号定「迷信に囚はれたる婦人」に松槙晴子の筆名で『東京印象記』を掲載
1910 明治43 10 1 『女學世界』10巻13号に神田千鶴子の筆名で『スヰートホーム』を掲載
1910 明治43 11 15 『女學世界』10巻15号定「日常生活の教訓」に内藤千代の筆名で『小春日記』を掲載
1910 明治43 12 1 『女學世界』10巻16号に『小春日記』と『歳の暮のマダム』を掲載
1911 明治44 1 1 『女學世界』11巻1号に金子百合子の筆名で『新年のマダムぶり』を掲載※本文『新年のマダム』
1911 明治44 1 15 『女學世界』11巻2号定「光栄ある人生の春」に『夢より醒めた女』を掲載
1911 明治44 4 1 『女學世界』11巻5号に金子百合子の筆名で『新郎新婦の性格』を掲載
1911 明治44 5 1 『女學世界』11巻7号に萩香の筆名で『湖畔吟』を掲載
1911 明治44 7 1 『女學世界』11巻9号に『青葉のかげ』を掲載※本文タイトルは「青葉の蔭」
1911 明治44 9 1 『女學世界』11巻11号に萩香の筆名で『現代の人より』を掲載
1911 明治44 9 15 『女學世界』11巻12号定「姿見かがみ」に『華族系』を掲載
1911 明治44 9   初の単行本『スヰートホーム』発行人河岡勝で博文館より刊行(装幀:杉浦非水)
1911 明治44 10 1 『女學世界』11巻13号に山百合の筆名で『寂莫』を掲載
1911 明治44 10   河岡潮風と対面、以後潮風の指導を受ける
1911 明治44 11 1 『女學世界』11巻14号に『生活難』と萩香の筆名で『帝都の秋』を掲載
1911 明治44 12 1 『女學世界』11巻16号に『新婚旅行』を掲載
1911 明治44 12   単行本『ホネームーン』発行人河岡勝で博文館より刊行(装幀:杉浦非水)
1912 明治45 1 1 『女學世界』12巻1号に『春宵記』を掲載
1912 明治45 5 1 『女學世界』12巻7号に『向陵の夜月』を掲載
1912 明治45 6 15 『女學世界』12巻9号に『箱から出た女』を掲載
1912 明治45 7 13 河岡潮風、後脊椎カリエスに加えて脳膜炎を併発し死去
1912 明治45 7   新聞(紙名不詳)に「愛人潮風の死を送る戀の内藤千代子」掲載
1912 大正 1 11   大阪毎日新聞に「謎の少女~鵠沼の千代子訪問記~」掲載される
1912 大正 1 12 1 『女學世界』12巻16号に萩香の筆名で『秋風吟』を掲載
1912 大正 1 12   単行本『エンゲーヂ』発行者:大橋新太郎で博文館より刊行(装幀:杉浦非水)
1913 大正 2 1 1 『女學世界』13巻1号に『赤門出の秀才』を掲載
1913 大正 2 2 1 『女學世界』13巻3号に『一身の革命』と『内藤千代子と大阪』を掲載
1913 大正 2 2   『―身の革命』を『女學世界』に発表
1913 大正 2 6 1 『女學世界』13巻8号に『其日々々の氣分』を掲載
1913 大正 2 7 1 『女學世界』13巻9号に『其日々々の氣分』を掲載
1913 大正 2 9 15 『女學世界』13巻第12号定「古今人情くらべ」に『五人空想團』と『富士遭難記』を掲載
1913 大正 2 11 15 『女學世界』13巻第15号に『藝術座の樂屋を訪ふ』を掲載
1914 大正 3 1 1 『女學世界』14巻1号に『生ひ立ちの記』を掲載
1914 大正 3 2 1 『女學世界』14巻3号に『東京印象記』を掲載
1914 大正 3 4 1 『女學世界』14巻5号に『生ひ立ちの記』と萩香の筆名で『女髪結の客』を掲載
1914 大正 3 4 10 『女學世界』14巻6号に『メーゾン鴻の巣』を掲載
1914 大正 3 5 1 『女學世界』14巻7号に『生ひ立ちの記』を掲載
1914 大正 3 6 1 『女學世界』14巻8号に『吾がアルバム』を掲載
1914 大正 3 8 1 『女學世界』14巻10号に『思ひ出の記』を掲載
1915 大正 4 5 1 『女學世界』15巻5号に『木の芽草紙』を掲載
1915 大正 4 6   単行本『惜春賦』誠文社より刊行
1915 大正 4 8 1 『女學世界』15巻8号に『毒蛇』を掲載
1915 大正 4 8   槍ヶ岳に登頂※日本人女性として初登頂(女性としてはウェストン夫人が前年に登頂している)
1915 大正 4 9 1 『女學世界』15巻9号に『毒蛇』と『日本アルプスへ』を掲載
1915 大正 4 10 1 『女學世界』15巻10号に『日本アルプスへ』を掲載
1915 大正 4 10 10 『女學世界』15巻11号に『毒蛇』を掲載
1915 大正 4 11 1 『女學世界』15巻12号に『毒蛇』を掲載
1915 大正 4 12 1 『女學世界』15巻13号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 1 1 『女學世界』16巻1号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 2 1 『女學世界』16巻2号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 3 1 『女學世界』16巻3号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 4 1 『女學世界』16巻4号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 5 1 『女學世界』16巻5号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 5   如山堂より『生ひ立ちの記』『惜春譜』の合本『生ひ立ちの記』を刊行
1916 大正 5 7 1 『女學世界』16巻8号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 8 1 『女學世界』16巻9号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1916 大正 5 11   京橋堂より『冷炎』を刊行
1917 大正 6 1 1 『女學世界』17巻1号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1917 大正 6 2 1 『女學世界』17巻2号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1917 大正 6 3 1 『女學世界』17巻3号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1917 大正 6 4 1 『女學世界』17巻4号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1917 大正 6 5 1 『女學世界』17巻5号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載
1917 大正 6 6 1 『女學世界』17巻6号に内藤千代の筆名で『毒蛇』を掲載※連載はここまで。未完に終わる
1917 大正 6 6   単行本『冷炎』京橋堂より刊行
1918 大正 7 7   単行本『春雨』京橋堂より刊行
1919 大正 8 10   単行本『毒蛇』三徳社より刊行※以後、文学活動は見られない
1920 大正 9 2 ~3月末、東屋九号室に滞在中の武林無想庵(1880-1962)に中平文子を紹介、結婚に至る
1923 大正12     内藤千代子(29歳)、双生児の姉妹を出産
1925 大正14 3 23 作家=内藤千代子、肺及び咽頭結核で没。享年31。鵠沼神明の万福寺に埋葬
E-Mail:

鵠沼を語る会 副会長/鵠沼郷土資料展示室 運営委員 渡部 瞭

[参考サイト]
 
BACK TOP NEXT