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鵠沼海岸別荘地開発はじまる我が国初の別荘分譲地である鵠沼海岸別荘地開発は、1894(明治27)年に土方伯爵の推挙により、御用邸が葉山に決まったことにより本格化したと思われる。大給(おぎゅう)子爵家が所有した25万坪ともいわれる広大な砂原に1町(約100m)毎に道路を敷設し、それによって区画された1町歩(3000坪=約1ha)を単位に分譲された。 鉄炮場跡地の一木一草もない不毛の砂原に過ぎなかった土地に、クロマツを植栽することを条件に売られたという。 不思議に思うのは、道路網がきちんとした格子状になっていないことである。第0126話で紹介した写真のように、ほとんど平坦な(海岸平野であるから、多少の砂丘列によるアンギュレーションがあったとしても)土地だから、直線的に道路を敷設するのは困難ではなかったと思う。何しろ我が国は、奈良時代から随の長安に倣って平城京の都市計画がなされ、口分田に伴う条里制の地割りが行われた千年以上の伝統を持つ国家である。 然るに、鵠沼海岸別荘地の地割りは、海岸方向に向かう北東―南西方向の道は、完全に平行でないにしても、かなり長く延びるが、それに直交する道は、なかなか長続きせずどこかでぶつかる。格子状ではなく、いわばあみだくじ状の道路網なのである。 大給子爵は1895(明治28)年頃、差配人だった木下米三郎に和紙を貼り合わせた畳二畳大の大きさで、地割りを行った土地一筆ごとに地番の記入がある大地図を、実際に測量・区割りして作成させた。 これをもとに、内藤喜嗣氏が作成したのが下図である。 これによると、この段階では自らの別荘地として購入するのではなく、投資目的で入手した数人の投資家がいたことが判る。そして、広大な別荘分譲地のうち、先ず南東部から売れていったことも。 これは、まだ江之島電氣鐵道が開通する前、石上から江の島に「早舟」が運行しており、それを利用するアクセスの便を考えてのことだったのではないかと私は睨んでいる。 初期投資家しかし、江之島電氣鐵道が開通する1902(明治35)年までは、別荘はさほど建たず、道沿いに松の若木が植えられた砂原が広がっていたようである。鐵道の藤沢停車場は、北口しかなく、一本松踏切を回って、本村を通り抜けるのが鵠沼海岸に向かう一般的なルートだった。その様子は、当時の鵠沼を描いた徳冨蘆花の『思出の記』という小説に表されている。さて、初期の投資家の代表的な顔ぶれについての内藤氏の調査は次のようなものである。
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