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『風俗画報』1889(明治22)年2月10日に創刊され、1916(大正5)年まで27年間にわたって発行されていた、日本初のグラフィック雑誌となる『風俗画報』があった。1898(明治31)年8月20日発行の『風俗画報』は富士山と相模湾を配した東屋の石版画の豪勢な俯瞰図(下図)をのせ、案内文に東屋を紹介してこうある。 「江の島を距(さ)る十二町。只這ひ渡る磯つたひ。樓は明治二十二年の建築なり、境の閑静なる、景致秀美、魚は新鮮にして、海水浴すべし、避暑療養の客、徐ろに滞在せむには、江の島よりも優るらめ。」 また「鵠沼は皆茅屋にして閑雅愛すぺし。」と。 下図を見ても、確かに東屋以外にクロマツの若木の中に散在する民家はほとんどが茅屋だし、亭(ちん)と呼ばれていた東屋の離れも茅屋である。東屋の茅屋の亭(大震災後に建てたものだが)は1軒だけが現在も遺っていて、茶道研究家E氏の茶室として使われている。おそらく鵠沼地区唯一の茅屋である。 この『風俗画報』発行のちょうど1年後、1899(明治32)年8月20日には、東洋堂から『江島・鵠沼・逗子・金沢名所図会』が発行された。この頃から鵠沼は観光地として認知されるようになるのである。 「鵠沼は皆茅屋にして閑雅愛すぺし。」という状況は、恐らく大震災まで続いた。ようやく建ち始めた別荘も、ほとんどが茅屋だったことは、大正の後半を鵠沼(現在の鵠沼松が岡四丁目)に住んだ岸田劉生が、自宅の2階から望んだ鵠沼海岸別荘地の風景画にも、茅屋が散在する風景が描かれていることでも判る。大震災で茅屋はことごとく倒壊し、それ以後はとたんにトタン葺きが流行するようになったといわれている。 ところで、「鵠沼を語る会」のホームページでは、昨日(2011年5月24日(火))から内藤千代子の全著作を公開した。ことに『生ひ立ちの記』には、閑雅愛すぺき時代の鵠沼が生き生きと描かれている。一読をお薦めする。 千代子の一家は、1901(明治34)に現在の鵠沼松が岡三丁目に家を建てて定住するのだが、この家も茅屋だった。 | ||||||
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